#001: kurkku alternative代表、江良慶介、学生時代〜kurkku入社



江良慶介
慶應義塾大学環境情報学部卒業。1999年よりシスコシステムズ合同会社など外資系IT企業に5年間勤務の後、バックパッカーを経て、2005年にKURKKUへ入社。2007年より、インドで農薬被害に苦しむコットン農家のオーガニック農法への移行を支援する「プレオーガニックコットンプログラム」を伊藤忠商事と共同で立ち上げ、年間約1,500農家の支援を実施。2011年、グッドデザイン賞サステナブルデザイン賞(経済産業大臣賞)受賞。また、3.11以降、津波により稲作ができなくなった農地にコットンを植え、雇用創出と地域再生を目指す「東北コットンプロジェクト」を発足させ、プロジェクトの事務局代表を務める。2012年3月より、ap bankにて復興支援事業を担当。2016年よりアーティストの力で地域の内側からの復興をうながす「Reborn-Art Festival」を立ち上げ、制作委員、副事務局長を務める。2020年より株式会社KURKKU、並びに株式会社KURKKU FIELDS代表取締役社長。2022年、株式会社kurkku alternativeを立ち上げ独立。
Twitter : @era_keisuke

中馬剛仁
2002年明治大学経営学部卒。フリーターを経て2005年株式会社アーバンリサーチ入社。主に新規ブランドの立ち上げや既存ブランドのリブランディングを担当。2007年 urban research doorsのリブランディングプロジェクトにて、栃木県益子町「starnet」との協業プロジェクトを担当。2008~11年にかけて、野外イベントででたペットボトルを循環させ、Tシャツに生まれ変わらせる「JOIN THE LOOP」プロジェクトの企画、インドのコットン農家支援「プレオーガニックコットンプログラム」や震災復興支援「東北コットンプロジェクト」など社外連携プロジェクトを多数担当。2013年より、作り手とユーザーを直接繋ぐことを目的とした野外フェスティバル「TINY GARDEN FESTIVAL」を開催、実行委員長を努める。2019年長野県茅野市蓼科湖畔に複合型宿泊施設「TINY GARDEN 蓼科」をオープン。同時に湖をテーマにしたブランド「EKAL」の立ち上げ及び全体のディレクションを担当。
Twitter:@chuman1979


Key Words: 
Phish, String Cheese Incident, Bonnaroo music & arts festival, WAKARUSA Festival, アメリア・アレナス, セントラルイースト東京, 東京デザイナーズブロック, kurkku, ap bank, THE BLUE HEARTS, ap bank fes, エコファーム


エピソードを読む:
[中馬]
今日はkurkku alternativeの代表の江良さん、のお話、江良さんについてのお話、それからalt-Tokyoって一体何ですか?みたいなところのお話を進めていければいいのかなというふうに思ってるんですけど。それにあたってのまず、江良さんのお話ですね、江良さんって一体どんな人なんですかみたいなところのお話からさせていただければなというふうに、思っておりますが、過去の経歴それから今までやってきたプロジェクトなんかをちょっとお聞き、お聞かせいただけると。

[江良]
すごい、どっから話せばいいのかと。

[中馬]
いやもうこれは、江良さんという人間がどのように形成されていったかという話になりますんで、いやいやもうなんで僕が知ってるのは江良さんは大学ですごいギターをの弾き語りをしていたという話はお聞きしてますけれども。

[江良]
弾き語りはしてないですよ。でもやっぱ音楽をね、なんかいろいろ音楽が中心の学生生活ではあったと思いますけれども。

[中馬]
なるほど、音楽もちょっと結構大学のときはずっと音楽を?

[江良]
大学あまりいかなかったというか、いかなくて。

[中馬]
よくある。

[江良]
それこそね、クラブに行って。

[中馬]
なるほど。

[江良]
そういう中でね、やっぱりJAMバンドに出会っていくんですよ。

[中馬]
JAMバンド。でもその当時のJAMバンドっていうと?

[江良]
その当時、今でも、もちろん活躍しているPhishとか、

[中馬]
その頃のPhishと90年代中盤ぐらい?

[江良]
96年、僕、大学入ったのは95年から99年までいたんで、もう本当にね、日本とかもうPhish来てたし。

[中馬]
フジロックですよね?

[江良]
フジロックとかも来てたし。

[中馬]
三日間やってるときですね?フジロックでPhishが。覚えてるな。

[江良]
結構そういうとかですかね。とかあともちろんそれでグレイトフル・デッドとか、そうなってくるとやっぱり、そのヒッピー感が出てくるんだけども。

[中馬]
そうですね。

[中馬]
だいぶ僕はなんでちょっとその後江良さんとお会いすることになるんですけど一番最初に会ったときにロラパルーザのTシャツを着てたんで。

[江良]
なんかそうかもしれないすね。

[中馬]
ロラパルーザっていうフェスティバルですね。アメリカの。

[江良]
そうだね。だから、何でしょうね。やっぱり決まった、コード進行とか決まってるんだけども、本当そこインプロビゼーションで自由に音を作っていくみたいなのが面白くて、そういう音楽を聞いたりとか自分でやったりとかしてましたね。あとやっぱり旅をするのが結構好きで、だから、いわゆるバックパッカーみたいなやつですね。

[中馬]
大学のとき?

[江良]
大学のときに、バイトとかして、休みのときにヨーロッパを電車で回ったりとか、アジアとか行ったりとか、インドとかも行ったし、アメリカ行ったり南米行ったり、とにかく何か海外に行くために、何かお金を貯めていくみたいなことと、でま、お金貯めつつ、何か音楽で遊ぶみたいなことがとにかく中心に、大学時代は何かそういうことをずっとやってた。ですけどね。

[中馬]
ずっとそうやった感じでお休みにお金貯まったお金で海外に行って。

[江良]
海外で、海外のクラブ行ったりとか、海外のフェス行ったりとか。

[中馬]
本当に音楽ですね、もうね。

[江良]
海外のそうだね。基本的には音楽だったと思いますね。

[中馬]
ちなみにバックパッカーとして海外に行ったのは、大学生になってからですか?

[江良]
そう大学行って、なんだっけなあ。最初はなんか東南アジアに何か学校の授業の一環みたいので行ったんですよ。

[中馬]
へえ。

[江良]
大学1年生の、冬休みだなんだか、それも学校が提携してる、東南アジアの大学とかに行って、何か現地の学生と交流しようっていう、そういうプログラムがあって、何かの単位もちろん今大学とかなんかマレーシアのペナンの何とか大学とか、シンガポールの何とか。

[中馬]
なんか回ったってことですか。

[江良]
その三つ、タイバンコクとペナントをシンガポール回って、それでまだ、英語が喋れなかったわけですよ。でも、でも文法はね大学行ってるから、まあまあできたんですけども、英語喋れなかったんだけど行ってみたら、結構喋れるんじゃないかってことに気がつくわけですよ。

[中馬]
それは

[江良]
例えば最初タイに行くんだけど、タイの人たちは別に英語うまくないから、でもタイ語も知らないし、向こうも日本語知らないから、英語でコミュニケーションしていくみたいなことがあって、それでこうやってみると、まあまあ喋れるんだなみたいな話があって、自分と違う異文化というか、何かこう自分とは全く違うバックグラウンドとか、それはもうね、全然違う人たちとコミュニケーション取るっていうことの、何か面白さに、何かこう気がつくというか目覚めちゃうんだよね。

[江良]
それでもっと本当、全然自分たちとはそんな中も何か文化も考え方もね何にも全て違うような人たちと、こう会っていくっていうことをやりたいって思って、それでなんかバックパッカーになってくんだよね。

[中馬]
これ、ちなみに、そこで目覚めて、大学の4年生までの間、結構ずっと行ってたんですか?

[江良]
でも、結局は、僕行ったのは休みのときだけだから、だから、2年生のときは2ヶ月アメリカ行って、3年生のときは2ヶ月ロンドンの友達のところに、ホームステイさせてもらって、そこでちょっとヨーロッパを軽く車で回ったりとかして、3年生のときは、でもやっぱヨーロッパかな、ヨーロッパユーレイルパスっていうヨーロッパの鉄道をぐるぐる回れる乗り放題のやつがあって、それでぐるぐる回ってたりとかして、あとは卒業旅行でインドに2ヶ月ぐらい周ったりとか、学生のときはそんな感じかなあ?

[中馬]
なるほど。ちなみに、その学生のときに海外にいろんなところに行ってるじゃないですか。うん。

[中馬]
何かこう国内にいるときの違いとか、やっぱ結構あったんですか?

[江良]
それって?何の違い?

[中馬]
生活習慣とか価値観とか、そこで、そこに何か

[江良]
あー、でもそれはいっぱいありますよね。

[中馬]
それで、今でも何かそのエピソードみたいあるんですかね。

[江良]
やっぱりインドは結構ショッキングだったね。インドはなんだろう、こうやっぱり日本っていろんなものがシステムとして、まぁ何だろう社会常識として、何だろう、これインドだけじゃなく、例えばヨーロッパとかそういう例えば赤信号は渡らないっていう、

[中馬]
これは当たり前のルール

[江良]
ですよね。

[江良]
今でも、今日も僕、東京では赤信号、子供が見てるときは渡らないようにしてんだけど、子供が見てないときは絶対わたるのね、車来てなかったらね、もちろん。

[中馬]
それなんでですか?

[江良]
何も来てないのに赤信号で待ってて、馬鹿馬鹿しいじゃんっていう話なんですよ。

[中馬]
はい。

[江良]
これはやっぱり日本だけだと、まぁ韓国とかわかんないですけど、アジアはそうかもしれないけど、ほぼほぼ日本だけですから。

[中馬]
なるほど。

[江良]
絶対に、何にも、車も何も人踊りなかったりするのに、赤信号でポケーっと待って、本当日本だけなんですね。

[江良]
いや日本ってやっぱそういうところあって、やっぱりインドとかはもう何ていうのかな、社会的なそういう常識とかルールみたいなものが、本当に目に見えないというか、今そこに、中馬くんいて、僕いて、どうすると上手く行くのみたいな、なんていうんだろう、日本みたいに、まず何か枠があってルールがあってこの中でみんなどう過ごすのっていうような、そういうような世の中の作りになってないと僕は思うんですけど。だからこう日本で今まで当たり前にこうするんだ、と思ったことは何かインドでやると、馬鹿馬鹿しいとか、何やってんの君とか、なんか逆にうまくいかなかったりとか、何かそういうやっぱり何か生の、人間同士の、ルールから入るんじゃなくて、生の人間同士の中での、やっぱりその交渉があるじゃない?例えば最初、空港を降りて、看板があって、街までタクシーで例えば80ルピーですって書いてあるのね。看板に書いてあるのよ。で、街まで行ってくださいって、タクシーの運転手に言うと、800ルピーって言われるわけですよ。ここでもう、ああだ、こうだ、みたいな交渉が始まって、ま、そんなような、なんていうのかな、何も決まってない。彼らとしてはやっぱりお金持ちの国から来たんだからインド人は80ルピーだけど、お前ら200ルピーだろうみたいな、最終的にはさ、それはある意味、正論というか、そうかとかもと思うんですよ。

[中馬]
そうっすね。

[江良]
それで、でも本当にお金持ってないバックパッカーだと絶対ノーなんだけど、お金に余裕持ってるバックパッカーなら200ルピー問題ないわけだよね?みたいな、なんていう、そういうようなルールというよりも、あくまで人と人との中で、みたいなことは、インドは、本当にショッキングで、卒業旅行で行ったんですけど、卒業旅行から日本帰ってきて、でなんか2週間後ぐらいに就職だったんだけど、本当、就職やめようかと思って、

[中馬]
よくある。よくききますけど。

[江良]
たまたま、たまたまその時、そのあと韓国に1週間行くっていう、もう俺ももうなんか最後だから、韓国に1週間行ったからなんかこう、なんかこう、ちょっとなんか中和されて。

[中馬]
なるほど。

[江良]
何とか4月1日入社式にたどり着けたんですけど、インドは、そういうのでいうと本当に日本と正反対の部分がすごいある。ルールがない。

[中馬]
やっぱりそこで、それでも大学、卒業旅行で行ってるわけですよね。でも卒業の話で言うとそこからもうすぐ2週間、1週間後に就職という形になって、就職するわけですね?

[江良]
就職しましたね。

[中馬]
どうでした?

[江良]
就職したのは、いわゆる僕、外資系なんだよね。いわゆる外資系のIT企業で。どうだったんだろうな。

[中馬]
それとやっぱり生きました?その経験?

[江良]
今?

[中馬]
いや、

[中馬]
大学時代の経験は。

[江良]
でも僕、あの、そういう意味だと、すごい英語ができる人と思われて入った。

[中馬]
お、なるほど。

[江良]
なんか英語のテストが、ヒアリングと、何かライティングが、すごいよかった。だから最初っから、そういう何ていうのかな。活きたかどうかでいうと、最初プロダクトマーケティングっていうところの、ま、プロダクトの担当になったんだよね、なんかもう外資系で。そういう意味で言うと、それは役に立ったかもしれない。けど、ただ最初は本当全然英語わかんなかったですけどね。なんかアメリカに20人ぐらいいて、僕が1人で何か日本仕様の製品を作る責任者で、いきなり。アメリカに20人くらい開発チームがいて、日本から1人入ったら、全然何言ってるか分からない。

[中馬]


[江良]
あれが、結構、最初マジでしんどくて、みんなでワーッと、特にエンジニアとかインド系とかChineseとか、みんなワーッと議論をして、どうなの日本は?とか言われて、ん?みたいな。笑

[中馬]
何言ってましたみたいな?

[江良]
あれは結構厳しかったですね。

[中馬]
なるほど。

[中馬]
ま、その外資系の企業に入られて、

[江良]
そうですね、そうですね。それで5年ぐらいやって、それ転職を、そのときの会社にいた上司の方が、何ていうかなその外資系シリコンバレーのいわゆるIT企業だったんだけども、そのシリコンバレーでいろんなね、新しいスタートアップがどんどんIT系、生まれてって、どんどん新しく作った、IT系の企業のいわゆるカントリーマネージャー、日本支社長みたいなことに上司の方がなって、それであの誘われるわけなんだよね、一緒にやらないかって言っていただいて。それで同じくシリコンバレーの会社のそういうベンチャーにジョインして、それでどれぐらいやったのかな、1年?1年ちょいぐらい、それはもう本当にいわゆるIPOっていう、最初だから、株式が公開されてない会社で、それを株式公開させてそれでそのキャピタルゲインっていうねその株価がね、こうバーンってみんなが投資を集めてそのお金でみんなお金持ちになろうよっていう、いわゆるそういうシリコンバレー的な、ロジックの中で頑張っていこうと、基本的にはIT系の外資系っていうのはやっぱり、そういうやっぱり株価を全て中心にした、諸々の、何か何につけても、人事と、特に働いてる人にとってはそういうのすごい大事なことで。そういうようなことで、やってたんだけども、ただ来週にもういよいよ株が株式が上場しますっていうタイミングになって、それで、株が上場すると、いくらかしらやっぱり僕たちもストックオプションというのを持ってて、お金が入ってくるんですよ。そういうのを目指してやってた。頑張って好業績を上げてたのに、結果としてそのときそのナスダックっていうその向こうの株式市場があんま景気が良くなくて、景気が良くなかったから、結局その7社のベンチャーキャピタルがお金出してやってた会社なんだけど、ナスダック上場させないで元々僕がその一番最初に入った、新卒で入った会社に身売りしちゃったんですよ。

[中馬]
あー上場せずに?

[江良]
上場せずに。それで何が起こったかというと、何か僕たち4人、社長と、僕の先輩の営業とエンジニアと、僕と4人でやってた会社なんだけど、みんなその会社から独立して、スピンアウトしてやったのに、みんなおかえりなさいー、みたいな。

[江良]
みたいな感じで、なんかすごい肩身狭いなあと思う。なんかねちょっと、これはっていう感じになったんです。そうなんです。それが、あって。

[中馬]
それって結構あることなんですか?。

[江良]
あんまないんじゃないかな。やっぱりそう身売りとかそういう何かそのね、そのストックが良くなかった、マーケットが良くなかったとか、そういうのはまあ、とか、でも自分がいた会社に買われるっていうのは、ちょっと、ちょっと特殊っていうか、あんま聞いたことないかもしれないですね。

[中馬]
でも結構そこのラインの話ってやっぱり本当お金

[江良]
っていうか、結構本当に何かお金動かしてどう、みたいな、そういう?

[江良]
なんか僕はその、さっきも言ったんだけども旅行が好きだから、だからそうIT系の人たちってやっぱりこう何て言うかな、やっぱりそのサラリーがいいし、そういうストックとかそういう、いろんなこともあるから、だからお金を稼いで、自分のその余暇でレジャーとして海外に旅行行きたいっていうのが、僕はそこのIT系の業界を選んだ理由だったし、またそのIT系だとやっぱりなんていうかな、早めに上がるっていうリタイアするぐらい、お金を早めに稼いで、あとは自由自適に暮らそうみたいな、やっぱそういうカルチャーとか、そういうものがあって、どちらかというと僕はその、20代の頃はそういうことを目指していたんですよね。ただ、結局のところそうやって自分でいかに頑張っても、やっぱIT系もね、すごい競争とかもあるし。じゃあなんだろう、貯金はできるけども、2週間海外に行けるかっていったら、そんな行けなくてね。まぁ普通行けないということは分かってなかったんだけど、全然そういう旅行とかにも行けなかったし、あとは何といっても、結局やっぱアメリカの会社のいち営業支店のいち営業でしかないから、何かに頑張って数字を上げたとしても、もう、結局アメリカのナスダックの株価の云々とか、そこにいるベンチャーキャピタルリストがどう判断するかみたいなことで、何か結局出戻りで云々みたいなことになっちゃうのが自分で割とコントロールできない。コントロールができないっていうことがわかって、だから結局何かこう、自分がこれで40歳代で何か、何かこうね、お金持ちになって上がって、何かこう旅行しようみたいなのも、そんなになんかこうね神様に何か願をかけてるみたいなのとそんなに大差ないんだな、みたいなこと

[中馬]
割とそれぐらい難しそうなことだなと?

[江良]
難しいっていうか自分で何かできる範囲っていうのは、そんなに、まあ日本にいてもそんなにないんだなっていうふうに思うようになったんですよ。それでアメリカに行こうかな、みたいなことをちょっと考えるんです。だから、結局意思決定はアメリカで行われて、日本で行われてないわけですよ。だから、やっぱいわゆる本社だよね、何かいわゆる日本でも支社本社でも本社で意思決定されるわけだから、それやっぱり意思決定の中枢に行って、ちゃんと自分で責任持って、そういう自分のキャリアを作っていくべきなんだろうと、いうふうに思ったんですが。

[中馬]
ええ。

[江良]
ちょっと一つここでやっぱ問題があって、はい。あんまりこう、僕そんなにコンピューターが好きじゃないっていう問題がですね、出てくるんですよ。

[中馬]
なるほど。

[江良]
どちらかっていうとなんかその、ある程度余暇に好きなことをやるために、何かこうね。たまたまそういうコンピュータ系が強い学部だったんで、コンピューターと英語が強いってことでそこに行ってるんだけども、やっぱりそのやってみると、やっぱ本当にコンピューターとか、やっぱコンピュータで世界を変えていくこととか、そういうことを本当に好きでやってるってやっぱ寝る間も惜しんでやってる人たちはいっぱいやっぱりいて、やっぱそういう人たちと、ある意味競争していくとか、その人たちと一緒にこう、対して価値を作っていくみたいなことって、やっぱりまあまあやっぱ大変だったから、自分で休みが取れなかったっていうのが多分あって、だとしたら、

[中馬]
そうか、そういうことやってても休みを取れる人はいるんですね?

[江良]
いやその人たちは休みを取ってなくて、つまり自分が好きでやってるから休みもへったくれもないわけですよ。

[中馬]
思ってないわけですね

[江良]
そこが多分自分が本当好きでやってる人たちなんで、

[中馬]
うん。

[江良]
そういう人たちに、やっぱり寝る間、別に寝る間を惜しんでやることがいいことじゃないんだけど、そんな人たちと、その人達に対して競争したりとか価値を示して提供したりしてくっていうことをやっていくには、なんていうかな、僕がそこまで、そこに興味が持てないから、この性質としてね、個性として持てないから、そこに人生かけても、でも結局休みが取れないってことは、ちょっと無理があるなというふうに思ったわけですね。

[中馬]
それは、でもやっぱりその中で、自分がどういうふうに生きていくのかみたいな、なんか部分というのは、だいぶ掘り下げていくみたいな感じになってくんすかね。

[江良]
だから出戻りで戻って、まぁ最初、そんなろくに仕事もないし、やる気もないわけですよ。ボケーっと、何かこう、おう久しぶりーみたいな。どうも久しぶりっす、みたいな感じでね、こうやってた中で、本当どうするか、もう辞めるのはもう明確だったわけでね。なんかやっぱり気持ちよくないから、若かったし、なので、辞めて同じ、なんかそういうつまりだから、同じなんか今回の船はちょっと沈んだっつったら当時の人たちに悪いけども、今回の船はちょっとちゃんとこう思ってたように、出港、船が出港できなかったけども、もっとこう次のね、船を探して、その船を出していくかっていうふうに思ったんだけども、やっぱりそもそも、その船を出すべきなのかっていうのは、やっぱだいぶ難しいんじゃないかなっていうふうに思うようになったんです。

[中馬]
その業界でということですか?

[江良]
その業界で、というか、業界ももちろんそうだし、結局、外資系のIT業界でそういうストックオプションとか、そういう株とか、そういうことをてこに、自分の資産を増やして休みを作って、その休みでまたバックパッキングしようっていう、そういう僕の何か、幼いビジョンなんだけど、そのビジョンがやっぱ無理があるんじゃないかっていうことだね。そこに気がついて、で、でもなんかちょっとあんま答えが出なくて、じゃあ何すればいいのっていうことが、だからなんとなく、ただそのときから自分のやりたいことを仕事にするのがいいだろうと思ってたんです。

[江良]
でもやりたいことが何なのか、結構難しい問題だったから、

[中馬]
それはあれですか、そのバックパッキングのほうが、その中に何かあるみたいな感じなんですかね、

[江良]
そんなことないんだけど、結局バックパッキングのときは、何か自分がこう生きている意味みたいなことに対して迷いはないので、もう、なんか楽しいから単純に。

[江良]
だから僕がその時出した結論は、バックパッカーやろうっていうことなんだよね。

[中馬]
なるほど。

[江良]
あの、なんて言うのかな、幸いなことに、すごいこう、なんていうこう、休みもなく働いてたから、まぁ多少の貯金があったので、その貯金を使ってバックパッキングしながら考えようみたいな、そういうちょっと遊び路線に

[中馬]
なるほど

[江良]
舵を切ったんですよね。なんか27ぐらいだった、27才、28ぐらいの時に、それでバックパックにまた、それで僕南米に、南米行ったことなかったんで、南米もやっぱりもう行くのがやっぱ2日ぐらいかかるんで、で、アメリカのちょっとそういう、その時はPhishじゃなかったんだけど、String Cheese Incidentとか、結構そういうJam系のバンドとか出てるような、ちょっとちっちゃいBonnaroo festivalみたいな、WAKARUSAってのが当時あった、WAKARUSA Festivalって今ないと思うんだけど、そう行って、そこでちょっと遊んでから南米に行こうと思って。

[中馬]
なるほど

[江良]
で、行ったんですよ。そう。そしたらそしたらでも僕はその、あのときも結婚してて、そしたら南米だったけな、どっかで何か連絡が奥さんからあって、子供ができたっていう。

[中馬]
おう。

[江良]
ちょっとさすがにこれは旅をしてる場合じゃないと。ていうことで、でもせっかく南米まで来たからマチュピチュまでは行こうという、そのアマゾンからこうアルゼンチンに向けてみたいな壮大な計画が計画あったんだけど、ちょっとごめん、マチュピチュまでは、マチュピチュからちょっとチリに抜けてボリビア行って、ウユニ塩湖行って、ですけどウユニからチリに向けて最後ペルーに戻って、ちょっと本当切り上げて、日本に帰って来て、それで、まだ3、4ヶ月だったので、バリ島に、もうバリ島でゆっくり過ごそうと。でバリで、多分8ヶ月だかそのぐらいまでは、なんだ、妊娠してる人が何ヶ月以上乗っちゃいけないというのがあるんだよね?

[中馬]
ありますね。

[江良]
ギリギリまでバリで、ぶらぶらして帰ってきて、子供が生まれたんですよ。子供が生まれて、また1ヶ月経って2ヶ月、3ヶ月で4ヶ月経つんだけども。

[中馬]
はい。

[江良]
そうすると嫁のお父さんが、はいなんか来て、お前は何をやってるんだと。

[中馬]
はい。そのときは仕事を数ヶ月、してなかったってことですね?

[江良]
数ヶ月間っていうか、1年ぐらいしてなかった。

[中馬]
なるほど。

[江良]
うん。

[江良]
だからその、南米に2ヶ月ぐらいかな?居て、2ヶ月で帰ってきてバリに半年ぐらいいたんですよ。

[中馬]
おお。

[江良]
で帰ってきて、2ヶ月、だから10ヶ月ぐらいで戻ってきたの、妊娠でね。子供産まれて、この生まれて1ヶ月2ヶ月。

[中馬]
なるほど

[江良]
だから僕としてはその何をやるのかっていうことが

[中馬]
その頃は明確にまだ

[江良]
わかんなかったんですよね。で、ま、なんかねただいくつかヒントになるようなことがあって、一つは、なんか友達でゴミ拾いをやってる人が

[中馬]
いて。

[江良]
大学の友達で、でゴミ拾いを、何て言うの、自分の家の近くでゴミ拾いをして、何かそれを写メか何かで送るみたいなイベントやってる奴がいて、それをやってみて、結構なんだか気持ちよかったみたいなのが結構あったっていうのが一つあって。

[中馬]
それに参加をしてみて、

[江良]
そう、それは自分のお金のため、お金を稼ぐために全力を尽くすみたいなことよりも、何かこう、これで誰かが気持ちよくなるとか、これ誰かが良くなるとか、何かやっぱり誰か他の人のために何かやった方が満足感が高いんだなっていうような気づきだったんだけどそれは。それは一つあると。それでそのときの僕は、あの、何だろう。あと僕、結構受験を、結構幼稚園のときから塾を行くような教育を親から受けて、小学校受験で某国立に入ったんだけども、

[中馬]
はい。

[江良]
それで中学校、そんな対して受験してないけども、高校受験して大学受験してみたいな。結構そういうところで、つまりその何か、詰め込み型っていうか、暗記をさせるようなこう教育をやってたん、なんかこう、やってきたんだけども、なんかそこに対して、結構、なんかすごい、疑問?なんていうんだろう、なんかそれですごい、そこに対して結構反骨心みたいなものがあって、その当時アメリア・アレナスって言う人がいて、この人は確か、MOMAとかで、子供たちに、絵画を見せるようなワークショップをしていて、彼女が言ってるのが、何だっけな、「見る、考える、話す」っていう本があるんですけど、そのときちょうどそういう本読んでて、とにかくその作品っていうのは、アートの作品っていうのは、もう作品を作った時点で、もう作家の手は離れているんだと。その作家、つまりだから作家が、もうこの絵はこういう絵だから、こういう解釈しろみたいなことは、絶対もう作家がそういうことを言えないと。それは子供たちが例えば見て、この絵はどうで、何で、こうで、自分はこう感じて良い作品だと思う。もしくは、悪い作品だと思う。なんかこの作家はこういうこと言ってるというよりも自分はこう感じてこうだみたいなのは、もうだから、あの、見る人の自由だし、見る人がその絵画をどう生かすかっていうこと、見る人次第だみたいなことを言ってるのがあって、つまりその、さっきのそのインドと日本の話みたいなことのカルチャーの違いみたいなことをしたけども、やっぱりその、なんだ、やっぱりこう、もっと自分で考えて、自分でいろいろ選んで、僕もそう、何を仕事にするかっていうことを、やっぱり1年かけて、決められなかったから、やっぱそうじゃなくて、もっとこう選んでいくとか、考えていく、何かそういう、やっぱり考える力みたいなことを育てていった方がいいんじゃないかっていうふうに思ってそれで僕は何かそこでアートがいいんじゃないかっていうふうに思うんだよね。それで、まずはその、最初にkurkkuに入るんだけど、その前にアートイベントのボランティアとかインターンをやるっていうような選択肢を、それ何でだったっけな、ちょっとそのきっかけは、よく覚えてないんだけど本当に何か、何かこういうアートイベントがありますみたいのがあって、それ日本橋のセントラル・イースト・トーキョーっていう何か東京デザイナーズブロックとかのちょっと続きで、ントラル・イースト・トーキョーっていうのが、あれ何年なんだ、2000、2003年とか4年のそこら辺にあるんですよ。

[中馬]
はい。

[江良]
そこで、何かそのアートと教育だよねどちらかというと、何かそういうアートと自由な表現と、それを使ってやっぱ自由に発想していくことを考える力を得ること、みたいなことも、そういうことで起業しようと思って、それで何か勉強しようと思って、そのアートイベントのボランティアをやるんですよ。そしたら、そこでどちらかというとデザイン系の切り口で入ってきたそのイベントの、まディレクターが何人もいるんだけども、そのディレクターの1人の人がいてそのイベントが終わった後に、その人がkurkkuの初代ディレクターになるんですよ、池田さんっていう、元々IDEEで、いわゆる、東京で、なんだあれは、黒崎さんと一緒に、東京デザイナーズブロックとか立ち上げた人なんだけども

[中馬]
うん。

[江良]
その人がkurkkuの初代ディレクターになるんですよね。池田さんに僕その時は教育みたいなことやりたかったんだけれども、kurkku、新しいそういうプロジェクトがあって、そこでも多分そういうことできるから、ぜひ一緒にやんないかっていうふうに誘っていただいたんですよ。

[中馬]
なるほど。

[江良]
で、それで入ることなんですよね。

[中馬]
kurkkuに。

[江良]
そうですね。そうときは何かこう、ap bankが何か新しいプロジェクトをしてっていうことを言われて、でも僕ap bankも、もちろんkurkkuってまだプロジェクトなかったので、よく分かんなかったし、まぁさっきあの、僕の音楽遍歴みたいなことを言いましたけど、やっぱりあんまりこう、なんていうか、J-POPって言っていいのかわかんないけど、邦楽を、あんまり通ってこなかったんで、まぁTHE BLUE HEARTSぐらい

[中馬]
なるほど。

[江良]
なんで、なんかちょっといまいちあれだったんだけども、ただap bankのそのホームページとかを見て思ったのは、そのやっぱりこう、今でいうサステナビリティというか、何か世の中に対して、こう、いいことをしていこうということと、あとはもう一つやっぱり何ていうかね、お金っちゃお金なんだけども、ちゃんとこうお金としても、ちゃんとこいういい形で回しつつ、いいこと、世の中に対する貢献みたいなことも、やっぱり両輪をちゃんと回してるんじゃないかと。なんか結構、その友達の、そういう、なんていう、ゴミ拾い活動とかもちょっと見てた中では、だからその、ゴミ拾いをしてる中で、自分が、本当に、自分のためだけに、自分のお金のためだけに働くっていうのは、やっぱりちょっと限界というよりも、何か、何かみんなのためになってるっていうようなことがあった方が、何か自己満足感が高いっていうような人間なんじゃないかっていう気づきがあったから、そういう意味でap bankもね、その本当に非営利で、まあ環境問題ですね、当時環境問題のためにいろいろやっていると、ただやっぱりその環境問題とかねやっぱそんなみんなのためとか、人類のため世界のためって言ってみれば話が大きいから、やっぱりその資本主義とか、こういう経済が大事な、大事というか、まぁ大きなね、位置を占めてる世の中では、やっぱりお金のこうある程度の規模とか、ある程度のお金もちゃんとないと、ちゃんと活動になっていかないし、それこそ意味のある活動とかインパクトが大きい活動になっていかないんじゃないかというふうにやっぱ当時思ってたとこがあって、それでそのお金の部分と、そういう社会貢献の部分、環境に対する何かアプローチの部分と、何か両輪を回してるような団体なんじゃないかなっていうのを、Webを見た感じでは思ったんですよね。

[中馬]
うん。

[江良]
それで、ap bankで何かそういう新しいプロジェクトがやれるんだとしたら、また、あとそのね、さっきも言ったけど義理のお父さんからお前いい加減にしろって言われたとか

[中馬]
そうだろうねっていう

[江良]
とりあえず自分で何か、何をするってことは見つけられなかったんだけども、ここで少し勉強をさせてもらうっていうことはあるのかなあと思って。それ2005年の12月なんだけども、入社するんですよね。それが、そこでap bankが始めるプロジェクトがkurkkuだったんですよね。

[中馬]
なるほど。ap bankが始めたプロジェクトがkurkkuなんですね。

[江良]
ap bankが、まぁあの、ap bankの話をすると、ap bankが2003年にできていて、元々2001年のニューヨークの同時多発テロをきっかけに、まぁ小林さんのご自宅がそのときにNew Yorkにあったんで、で、やっぱりこの世の中の何か、こう、世の中がやっぱりちょっと今のようなのはおかしいんじゃないかと。でね、その資本主義の何ていうか総本山的なウォール街があるマンハッタンに、彼らのね、いわゆる資本主義のこう、いわゆるアメリカからするとマイノリティな、アラブのイスラムの原理主義の人たちが、そういうテロっていう行為を使って何かこう、彼らの主張を、ああいうテロっていう形でやるわけだけども、やっぱり何か世の中に歪みがあるんじゃないかっていうふうな、小林さんの想いというか、気づきをもとに、じゃあ何がそうねか、自分たちにできるのかっていうことを探して、できてきたのがap bankっていう組織なんだよね。彼らは自分達でお金を出し合って、それをファンドにして、それで何か、いろんなこう環境問題に取り組んでいるいろんな人たちに、銀行じゃなくて自分達がすごい低い金利でお金を貸していく。それで、やっぱりね、そういうお金、お金の何か象徴であるとこが攻撃されたわけなんで、お金っていうのは単なる道具なんじゃないかという仮説にもっと基づいて、自分たちがそのお金を道具として、何かより良い環境が良くなる未来のために融資をしていこうと。それで2003年に始まったのがap bankなんだけれども、でも最初こうお金を出していくと、お金がなくなっていっちゃって、自分たちがまあまあそれなりの金額を出されてるんだけども、でもやっぱお金なくなってきちゃって、金利が低いしそれを運営するための事務局の経費とかもあるし、だからお金貸してったら、もう活動は続けていけない。自分たちの活動はサステナブルにできないっていう問題に直面して、だったら、何か自分たちはミュージシャンだから、音楽をやって、そのライブでその収益でまたその運営資金にしていこうと、いうことになったんだけども、これ僕が入る前なんですけど、最初なんかディナーショーやったらしいんですよ。

[中馬]
そうなんですね。

[江良]
ディナーショー。ただやっぱり櫻井さんと小林さんが動くとなると、わりかし、というかだいぶ大ごとで。

[中馬]
そうですよね

[江良]
じゃ、楽器だ。PAだ。

[中馬]
大変ですよね、きっとね。

[江良]
なんだかんだっつったら、まだ、あんま言っていいのか分かんないけど、赤字だったららしいのよ。

[中馬]
ここは、カットされる笑

[江良]
それでちゃんとお金をいわゆるいまで言う、こうね、クラウドファンディングで、ファンドレイズして、音楽を通じて自分たちの音楽を通じてそのコンセプトに共感してくれる人に集まってもらって、それで活動資金を作っていこうっていうことで、2005年にap bank fesっていうのを始めるわけなんですね。これがだから、初年度どれぐらいあったかあれですけど大体やっぱ6万人から7万人ぐらいだと思うんですよ。初年度は。そういう人たちにやっぱコンサートという形で音楽提供して、そこのチケットを販売して、やっぱりこう、そういうね環境に対する意識に共感してくれる人がチケット代払って、もちろんミスチルも含めて音楽を聴きたいってという人も含めて、そのお金でまた活動資金を得ていこうよと。でもやっぱりその2万人、1日に来るとしたら、じゃあ何食べるのっていう話になって、いわゆるこうねそのイベントするとテキヤさんみたいな人並べられるんだけども、やっぱ環境の問題考えていくときに、やっぱ食はなんなん、どうなんだとかね。いろいろそういう問題がやっぱあるから、何でもいいというよりもやっぱり折角2万人×3日間で6万7万人来ていただくんだとしたら、やっぱり食のことから、何か自分たちの生活のことを気づいてほしいし、やっぱより良い食というか、食の問題課題をまぁ美味しく感じながら分かってもらいたいっていうふうに、事務局側も、もちろん小林さんとか櫻井さんもそう思われたと思うんですよ。それでじゃあap bankの融資先の、その時エコファームっていう熊本の養豚農家さんに融資したんですよ。

[中馬]
あー聞いたことあります。

[江良]
それは豚を放牧で飼ってるんですね。養豚をしてる側が、豚の顔を識別できるというか、あ、この子は、名前は適当だけど、花子だよね、この子はなんだよね、っていうような、そのぐらい豚のことを気にしてちゃんと放牧で育てているところで、それは何かこうね放牧だから美味い、なんのかんのというよりも、それぐらい気にかけて育てられてる豚だから、本当にいい豚じゃないわけがないっていう、そういう豚を使って、そういうキーマカレー作ったりとか、もちろんスパイスはフェアトレードでとか、何かそういうようなことを自分たちでお客さんに対して伝えてこうっていうそういういわゆる飲食ブースを作った。このap bank fesでkurkkuっていうのが、飲食を提供するためのブースとしてできて、それをただフェスの3日間だけじゃなく、東京で普段の何かライフスタイルに提案していけるような常設の場所として作った方がいいんじゃないかっていうことで、それを会社化するんですよ。だからどちらかというと、何かこう、やっぱり何か社会実験みたいな感じでkurkkuは2005年に始まるんですよね。食はどう考えていけばいいかっていうことで、レストランができたりとか、何か雑貨屋を作ってみたりとか、やっぱ緑が必要だよねってことで植木屋を作ってみたりとか、あと最初本屋とかもあって。なんかそういうこう、原宿のまぁ今のまぁなんだ、ユナイテッドアローズのメンズ館の

[中馬]
奥のとこに奥のとこでしたよね。本屋さんもありましたよね、あの二階のところにね。

[江良]
そういうちょっと複合的なお店を作るんだけど、僕はだからその立ち上げ、だから僕が入ったときには1人その最初のディレクターの方がいて、その前に1人レストランのシェフをやる方がもう1人いて。僕は3人目の社員みたいな感じで、

[中馬]
なるほど。

[江良]
入ったんですよね。

[中馬]
それがkurkkuのスタートなんですね。

[江良]
そうですね。それで2006年の3月に僕は2005年の12月に入って、2006年3月にまずレストランが開いて、その何月だっけな、6月だか8月だか9月にさっき言った、雑貨屋とか、植木屋とかカフェとか本屋が開いて、それがスタートでした。

[中馬]
なるほど。そっからいろんなプロジェクトをやられていくことになる、んですが、ちょっと一旦ここで、僕の話を少し。

[江良]
あ、そうですね。はい。