kurkku alternativeは、都市生活者が自然や地域、生産者や隣人とのより良い関係性について一緒に学び、生活を循環型、コミュニティ型にシフトしていくために取り組める、オルタナティブな仕組みを提案していきます。

alt-Tokyo 最新のエピソード

#021: 堀田真代さん: NacreArc創業者兼CEO: 住民視点からみた2023年イスラエル ハマス戦争、襲撃されたキブツから避難した人々の状況、取り戻したい日常、アラブとユダヤの共存



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堀田真代

NacreArc創業者兼CEO  岐阜県出身。1998年に高校留学で渡米し、その後6年間、アメリカのオレゴン州とカリフォルニア州で過ごす。 2004年にソフトバンクグループでキャリアをスタート。12年間にわたる在籍中、アリババ、ボーダフォンジャパン、Bio Fund、China & India Fund、MySpaceなど、IT企業約100社の買収や投資、ジョイントベンチャー設立に関わり実績を上げる。 また、2011年の東日本大震災後は社長室で復興支援活動に取り組み、1,000人の高校生にアメリカでの学びの機会を提供。 2017年にイスラエルに転居した後、日本企業にイスラエルの最先端の技術を紹介し、日本へのローカライズに取り組む。2022年以降はイスラエル人のパートナーとNacreArc社を起業し、引き続き会社として事業の架け橋を担う。 専門領域はサイバーセキュリティ、サイバーインフルエンス、ブロックチェーン、A.I.など。
Linkedin: mayo-hotta


Key Words: 


下記リンクより、被災者の支援を行っているNGO、IslaAIDへの寄付を行なっていただけます。
IslaAID
IslaAID ドネーションリンク


エピソードを読む:
[江良]
本日のalt-Tokyoは、以前もご登場いただきました、NacreArc創業者兼CEOの堀田真代さんにお越しいただきました。どうぞよろしくお願いいたします。前回から少しお時間が経ちましたが、今日は急遽ご参加いただいたのは、収録時間は11月21日の日本時間夕方でお話しさせていただいているんですけれども、イスラエルとガザ地区、ハマスの間で、これは戦争という言い方でいいですかね。どういう言い方が。

[堀田]
戦争ですね。今まで作戦であったりとか、いろいろ衝突のたびにあったんですけれども、今回は10月7日、当初から戦争というふうに呼ばれています。

[江良]
その中で、日本でもいろいろな報道がマスメディア中心にされていたり、あとSNSでもいろいろな情報が出ているんですけれども、やっぱり、どっちが良い悪いとか、何千年もあるいろんな歴史の紐を解いて、ああだこうだという、どっちが白、どっちが黒みたいなわかりやすいラベルを貼りたくなるような、そんなような報道がいろいろされているわけですけれども、まぁ僕たち率直な感想としては、実際に本当にどういうことが起きていて、どういうふうに、多分イスラエル、パレスチナ、どちらもいろんな方が苦しまれていて、そういう本当に実際のリアルな人がどういうふうに、どういう被害を受けているのかとか、いろいろ、そういう肝心なところがなかなか情報が得られないなと思っている中で、僕たちが尊敬できて、以前もお話できて共感できる堀田さんに何かご存知のところを少しでもやっぱり知ってみたいなというふうに率直に思って、堀田さんのほうに、ちょっとそういうお話を一緒にさせていただけないかということを先週ご相談させていただいたという流れでしたね。

[堀田]
今日は呼んでいただいてありがとうございます。

[江良]
じゃあ今日堀田さんが僕が来ていただいたモチベーションですけれども、どういったモチベーションで今日お話いただこうと思っていただいたんでしょうか。

[堀田]
私はイスラエルにしか住んだことがないですし、ガザというのは本当に壁の真横まで行ったことはあるんですけど、そこから先に越えることもなかったですし、ガザの中で何が起こっているか想像することしかできないんですが、今日は政治的な立場で話したいというよりも、イスラエルに住んでいる人としてやっぱり何が欲しいかというと、日常を取り戻したい。これに尽きるかなというふうに思っています。それはガザの方々もきっと一緒だなというふうに、想像でしかないんですけど思っています。そうなった時にガザの中で多くの方々が毎日お亡くなりになっていること、本当に心が痛いです。イスラエルの中で殺害された、また拉致された被害者のご家族の方々にも非常に心が痛いです。なので最終的に求めるものは日常。これだけなのかなと。日常を取り戻すためには何ができるのか、今実態はどうなっているのか、今日はそんなことがお話できればいいなと思って、今お話しさせていただいています。

[江良]
改めて、前回も聞いていただいた方も多いかと思いますけれども、改めて特に今日のアジェンダに沿って、少し堀田さんの人となりをご紹介させていただきたい、ご質問させていただきたいんですけれども、もともとソフトバンクにいらっしゃって、その中で東日本大震災の復興支援のご活動をやられていたお話ですけれども、もう一回改めてリスナーの方に共有いただいてもよろしいでしょうか。

[堀田]
ソフトバンクの東京のオフィスで2004年から2016年まで12年間働いていました。後半のソフトバンク時代のキャリアにおいては、2011年の東北の震災の支援というのに関わっていて、当時TOMODACHIプログラムというのを立ち上げて、合計、今でいうと1,000人以上の方々、10年以上続いているプログラムなんですけれども、1,000人以上の方々に創業者の孫正義さんの母校であるUCバークレー、カリフォルニア大学バークレー校に留学していただく。そこで建築学部のプログラムで、どうしたら自分の街を明るいものにできるのか、または再生できるのかというスキルを学んでいただくというプログラムを形成し、東北の子たちが参加し、高校生が参加して戻って、自分たちの街をどうしたら自分たちの力で再生できるのかというプロジェクトが多く立ち上がりました。

[江良]
はい。堀田さんは復興支援活動を中心的に実行されて、そこで現在の、そういった同じように復興支援活動をされていた、現在の旦那様とお会いになって、ご結婚されて、今、日本とイスラエルと、アメリカとかもあるかもしれない、いろんなところの拠点の生活をされているわけですけれども、今回のお話を伺うにあたって、今現在の旦那様のご活動とか、そういったところを教えていただいてもよろしいでしょうか。

[堀田]
はい。夫はイスラエル人で、そもそも2011年、12年に出会ったとき、イスラエルという国を、私は全く知らなかったのですが、イスラエルという国は、ホロコーストがあったりとか、その後たくさんの戦争を経験して、心のケアというものに非常にフォーカスし、経験がある国です。彼らが持っているノウハウを東北に持ってきてくれて、心のケアというプロジェクトを立ち上げて、例えば保育園で多くのお子さんが亡くなったところでの園児のサポートであったりとか、そこの先生、または親御さんのサポートというものを、彼らは地元に根を張ってやっていました。夫の団体はイスラエイドと言いますが、その後どんどん拡大していって、合計62カ国、世界62カ国で災害支援、災害といったときに自然災害、人災をサポートしてきました。今現在16カ国で支援活動をしていて、例えば、最近ですとモロッコの災害支援、少し前ですとウクライナの戦争支援、ちょっと前ですとアフガニスタンの退避の支援、こんなところをやっています。
彼らのモットーとしては、心の支援であったりとか子どものサポートを多くしているので、短期的な支援というよりも長期的、日本においても、その後7年とか8年とか滞在し、彼らが残した団体というのは、一旦彼らの手は引いているのですが、団体としてまだ存在して、東北の支援であったり、東北で得たノウハウを海外に持っていくという支援活動をしています。なので中長期に関わるというのが彼らの手法で、そんな活動をし、一番最新の支援としては今回のイスラエルの戦争。これまで自国の支援というのはやってこなかったのですが、今回初めてイスラエイドの自国の支援ということで関わり、今フルタイムのスタッフが100人以上、このイスラエルだけのプロジェクトのために採用されて活動しているという状況です。





[江良]
それは存じ上げませんでしたね。やっぱりそれだけこの10月7日でしたっけ、ハマスがイスラエルを攻撃するわけですけれども、それが非常にイスラエルにとっても特別なことだったということを改めて感じますけれども、では、まず堀田さんの目線で、10月7日からの、あとその前からも堀田さんの方で必要と思われる、これを聞いていただいている、普通の日本人って多分ユダヤ、アラブ、そこら辺の違いからそんなに親しみがないものだと思いますし、いろいろな文脈を僕たち理解していない方の方が多いんじゃないかなと思うんですけれども、お話の、話すとすごい長くなってしまうような気もしますけれども、ここはまず抑えといた方がいいみたいなところも含めてですね、お話を、まずこの背景をどういうふうに理解していくといいのか、堀田さんの視点を教えていただけますか。

[堀田]
そうですね、話すと本当に歴史書の話になってしまうんですけど、まずイスラエルという場所なんですけど、イスラエルで最近よくご覧になっているかもしれないんですが、地中海の一番奥、ヨーロッパから見たときに一番奥にあって非常にきれいなところです。前回呼んでいただいたときも少しお話ししたんですけど、テルアビブというところは非常にきれいで、地中海にきれいなビーチがあるんですけど、そこがサンセットビーチで、すごくきれいな場所です。中東の中でも唯一、欧米的な国というところで、アメリカの傘下にいる欧米的な国です。文化的にも欧米的で、ホロコーストの後、ヨーロッパからたくさんのユダヤ人が移り住んできて、その前からも移り住んできたんですけど、私も実は夫に出会うまで、イスラエルという国について全く知らなかったんです。出会ってみると、かなり肌が白くて、金髪、ブルーアイズみたいなところもあったりとか、本当に欧米らしいって、まさにその通りの国です。なので、アラブ系の方々とはちょっと違って、ヨーロッパでの生活様式だったりとか、食事様式、あとは経済、政治の仕組み、こんなものを持ち込んで、1948年に設立された国です。で、突然、アラブの中東の国の中に欧米の国みたいなのがポコンとできてしまって、それさえもパレスチナとイスラエルの関係の悪化、または紛争につながっているんだろうなというふうに思います。重要なこととしては2つあると思っていて、そうやって1948年に設立された国なんですけど、その後たくさんの戦争を経験して今に至っています。一つ重要な歴史的なものとしては、イランですね。日本とも非常に関係が強いイランなんですけど、1979年に革命を起こしています。それ以前のイランに関しては、非常にある意味欧米的で、非常に教育も豊かで、私たちが知っているイラン人というのは、多分日本にも仕事に来ていらっしゃったような、非常にフレンドリーで、頭も良くて、そんなのがイラン人のイメージだと思います。それが1979年に革命が起こって、イランとして欧米に対する反発というものの革命でした。なので、イランにとってイスラエルというものが大きな敵になってしまって、それ以前はイランとイスラエルの関係というのは良かったんですけど、1979年を境に中東で欧米をリプレゼントしているようなイスラエルというものは彼らにとって非常に憎い敵になってしまいました。そこからまた時間が空いて、ハマスというのは80年代に作られた団体で、もともとは福祉活動もしていたのですが、なぜ今みたいに暴力的になっていったのか、いろんな諸説があるんでしょうけど、すごくシンプルに言うと、どこからお金が流れているのかというところも重要になるのかなと。
そうした時にニュースでもよく取り上げられるイランの関わりというのがあります。イランというのはイスラエルが憎い。イスラエルが憎い、自分たちで攻撃するよりもハマスであったりとか、南はレバノンにいるヒズボラ、この辺を使ってイスラエルに対して攻撃するというのが効率が良い。ちなみにイエメン、もうちょっと南の方に行きますと、イエメンにフーシというフーシ派というのがあります。これもイランのサポートを受けていると言われていて、まだ先週の話ですけど、日本郵船の船がイスラエルに関わっていたということでハイジャックされています。世界というのは日本から見た時に非常に遠い、特に中東というのは遠いように聞こえるかもしれないんですけど、日本郵船の船がハイジャックされたりとか、そんなに遠い世界の話でもない、日本にとっても非常に関わりがある話だというふうに捉えた方がいいんだろうなというふうに思っています。

[江良]
そういう中で10月7日、先月、簡単に言うとロケット弾が、何千発何万発ちょっとわからないですけど、大量のロケット弾が、ガザ地区からハマスから、イスラエル領内に発射されたと同時に、陸上でも軍隊なのか侵略があって、いくつかのコミュニティが壊滅的に破壊を受けて、そこで殺戮があったり、ちょうど今停戦期間中で人質の解放というようなことをやっていますけれども、そこで誘拐というか、その人が生きたまま連行されたというようなことがあったのが2ヶ月前なんですけれども、これは今、特にイスラエルから見たときに、どんなような事件として報道されたり捉えられているんでしょうか。

[堀田]
そうですね、10月7日に関しては日本ではあまり聞き慣れていないかもしれないんですけど、まさか日本語訳すると虐殺ということで、人々にショッキングなニュースでした。これなんですけど、イスラエルにいるユダヤ人だけではなくて、世界のユダヤ人にとって大きなショックで、なんでこんなにショックなのかといったときに、例えとしてはホロコースト以降初めて、1日でこんなに多くのユダヤ人が殺害されたということで、ショックなニュースでした。人数で言うと、今、この時点でわかっている人数は、1,400人以上が当時殺害された。プラス、未だに200人以上の方々が拉致され、捕虜になっている。これが現実としての数字です。それもいろんな話があるんでしょうけど、ただ単に殺害された、ただ単に拉致として捕らえられた、そういうシンプルな話ではなくて、ものすごいレイプであったり、未だに100体以上の遺体が身元確認できないような状態であったり、非常に残虐に殺害されたというのが実態です。
世界のユダヤ人だけではないんですけど、世界中の人にとってこれがテロと認識されています。ただし、日本人にとってはテロというものが、オウム真理教の地下鉄サリン事件、このぐらいのテロしか近年の日本国内でなかなか起こったことがないんですよね。テロというものが何なのかということも、多分伝わりにくいのかなというふうに思うんですけど、テロを簡単に訳すと、イデオロギーに反する人に対して暴力的な行為をするということだと思うんですよね。それは個人、1人が誰かを殺害するということもできるかもしれないですし、集団が集団を殺害するということもできるかもしれないですし、安倍首相の件もテロ行為というふうに呼べるんだと思うんですけど、このレベルのテロ行為というのが日本で起こったことは非常に珍しい。なので、日本人の方々とお話をしていると、テロというものに対しての認識が、世界が見るテロと、日本が見るテロってちょっとギャップがあるなと思うので、ここだけは指摘させていただきます。で、例えば、アメリカ人にとってテロ行為で非常に残虐だったものは9/11。こういうものを自国としても経験しているので、その後アメリカは中東の戦争に挑んだということもあり、思想としてはそんな感じだと思います。10月7日、何が起こったかというと、そのような残虐な殺害がされた。それ以外に、ガザの方からハマスからのロケット弾が発射された。そこから何日にも渡ってテルアビブというのはガザから50キロ、60キロで、まあまあ遠いところにあるんですけど、そこにも1日に何本も何本もミサイルが飛んできた。それ以外のところでも、イスラエル、エルサレムの方であったりとか、あと砂漠の方であったりとか、そんなところにもロケット弾が毎日毎日発射されました。最近になって随分収まったんですけど、ただ最近においても1日に1回ぐらいはミサイル弾が、ロケット弾が来るような状況が未だに続いていて、ハマスってすごい、どれだけミサイル持ってるんだろうっていう、不思議になるぐらい、彼らの能力っていうのは構築されていたんだろうなというふうに思います。

[江良]
いやでも本当に、以前お話いただいた時もテルアビブって、なんていうの、すごい平和という言葉だったか、穏やかで過ごしやすい街だったっていうようなことをお話いただいたと思うんですけども、やっぱりその、10月7日から本当に、何かそうね、今までの、まあ平和という感覚もまたちょっと日本人とまた違うような気もしますけれども、なんかやっぱりそれは、だいぶこう日常が一変したような感覚なんでしょうかね。

[堀田]
おっしゃる通りです。ラッキーなことにイスラエルっていうのはご存知の通りアイアンドーム、迎撃ミサイルを持っているのでほとんどが撃ち落とされて、で実際に落下してくるものはパーセントとしては低いです。ただしゼロではないので、そこには被害が出ています。ただし、こうやってミサイルが来るたびにシェルターに行ってっていうのは特に子どもたちにとっては大きな負担で、1人の9歳の女の子はその時に心臓発作を起こして亡くなるっていうこともあったりと、ストレスっていうものは見えないところで非常に大きいだろうなというふうに思います。

[江良]
そうですね。まず堀田さんのお立場からどういうような日常が見えていらっしゃるのかということですけれども、ここでちょっとまた今回堀田さんの方で、今回ハマスの陸上からの侵攻があった、ひどい被害があったところがあって、前回もキブツについてお話伺いたいということで、キブツのお話いろいろいただいたんですけれども、キブツでもひどい被害があったところがあったというふうにお伺いしましたけれども、まずおさらいで、キブツ、イスラエル特有のコミュニティ生活の在り方だと思いますけれども、キブツのおさらいをしてから実際に堀田さんが見てこられたことを共有いただければと思いますけれども、まずキブツって何だろうというところから簡単にお願いできますか。

[堀田]
はい、キブツなんですけど、昔80年代、90年代、日本からもボランティアの方々が多く来ていたというふうに聞いているんですけど、社会主義的な共同体で生活するというものです。そんなに大きな村ではなくて、大きさ的には例えば400人くらい、それからマックス1,000人くらい、このくらいの大きさのものがキブツとしての共同体です。見た目はどんなものなのかといったときに、1948年、建国ですけど、ヨーロッパから来たユダヤ人の人たちは唯一持ってなかったものは土地だったんですよね。なので土地への執着というものが非常に強かったということもあって、まず自分たちで土地を開拓して農業的な生活をする。一緒に人々が共に生活できるような安全な場所を作りたいというものが一つの始まりです。ただそこから約80年経って、多くのものが変わって、キブツとしての社会主義的な共同体というものはだんだんなくなりつつあるんですけど、しかし今回襲撃されたエリアというものは、昔ながらのキブツが残っていたところで、非常に裕福なキブツとして知られていたエリアです。

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[江良]
そうですよね。たぶん、財産もキブツってコミュニティの中で共有したりとか、家族も子どももキブツみんなで育てるとか、一般的にはリベラルなイメージを持ちますよね。そういった意味でいうと、ガザの近くにあるキブツが被害を受けたんだと思うんですけども、やっぱりそれってイスラエルとガザとの対話をしたりとか、そういうところに逆に積極的に取り組んでいたようなこともあったんじゃないかなと想像したりもするんですけれども、まずどういったキブツと言ったらいいんですけどね、パレスチナとガザとの起物だったり、普段はどういうようなコミュニケーションだったり関係性が、特に10月7日の前はあったんでしょうかね。

[堀田]
そうですね、ちなみに南の方から退避勧告が出ている村っていうのは大体40あります。その中で特に今回被害が多かったものが、村が3つあって、一つはニル オズ、これキブツです。もう一つはべエリ、これもキブツです。で、もう一つはクファルアザというものがあります。クファルアザというのはアザというのがヘブライ語、アラビア語でガザという意味なのでガザ村というそんな訳し方になります。この一つのキブツに関してはニル オズ、ガザから距離としても2キロぐらいの場所にあって、ここは427人お住まいだったというふうに聞いていて、40人が殺害され72人が拉致されている。ちなみに毎日13人ずつ解放が進んでいて、これで3日間毎日解放されて、今日が4日目になります。今日もスムーズに解放されることを祈っているんですけど、一番最初の日に解放されたのがニル オズの人でした。2日目に解放されたのがべエリの人たちでした。3日目がクファルアザの人たちでした。当然ニル オズの72名全員が解放されているわけではないので一部になるんですけど、そんな感じで村ごとにこの3日間毎日解放されてきたという感じです。
ニル オズに関してなんですけど、先日ニル オズの方々の約9割の人たちが今ホテルで一緒に暮らしています。エイラットという紅海、紅の海と書く紅海ですね。きれいなリゾートホテルに政府がホテルを貸し切ってそこで皆さん生活されています。この方々とお話をしてみると、こんなことをおっしゃっていました。まず25%のキブツのメンバーがいなくなってしまって、毎日気持ちとしてはお葬式の状態。まだ多くのご遺体の身元確認ができないような状態なので、いまだに毎日ではなかったとしても週に1回、2回新しい方々のご遺体の確認が来て、またお葬式をするというプロセスが続けているということをおっしゃっていました。なぜこんなに拉致された人たちが多かったかというと、2005年以前、ガザに住んでいた20%から25%は実はイスラエル人だったんですよね。そのくらい行き来がされていて、このエリアとガザというのは道でつながっていたんです。今はほとんどが壁になってしまっていて、世界からも壁に対してイスラエルに対する批判があるんですけど、2005年以前は人々が行き来する状況でした。なので道もあって、その時からの20年弱前からの道もいまだにあって、それが農業であったりとかに使われている。ニル オズに関してはガザのボーダーから約2キロのところにあって、そこに別々の2本の舗装された道がガザにつながっていました。
おそらく非常に生きたまま拉致するのに向いている場所だったんだというふうに思われます。それ以前に、そもそもどのくらいガザとイスラエルの人たちがコミュニケーションしていたかというと、約ガザの2万人の人たちがイスラエルで仕事をするワーキングの許可証を持っていました。毎日何千人かの人たちがボーダーを壁を越えて、イスラエルの方に仕事しに来ていました。当然この人たちがわざわざテルアビブまで行って仕事するということはなくて、この周辺の地域で農業であったりとか工事作業員であったりとか、そんなところに関わって仕事をしていました。なので、ニル オズの人たちも多くのガザの人たちと仕事をした時間を共にするということを常日頃からしていたと言っていました。

[江良]
そうですよね。それが突然、働く人が来るんじゃなくて、銃を持った車がやってきて、ちょうどその道路はインフラはちゃんとしていたから、すっと来て、一瞬のうちに恐らくいろいろ襲われて、というようなことが起きたんだと思うんですけども。でもちょっと、僕たちもともとキブツはコミュニティのあり方を考えていく中で、キブツという存在を知ったんですけども、25%が今、周りにいらっしゃらないというところはあるにしろ、また9割の方がちゃんと、ひとところに集まって避難されているというのは、やはり皆さんのコミュニティの強さというか、災害時だからこそのコミュニティのあり方みたいなことなのかもしれないなと思うんですけれども、やはりこれは、実際に、あれ、堀田さんはエイラットの避難のところにお伺いされたんですよね。

[堀田]
はい

[江良]
どんなような、やっぱり、ちょっと分かるか分からないですけど、例えばガザ村のそういうところと、キブツというコミュニティがある人たちとの避難とか、災害の後の立ち直り、立ち直るという状況でもないと思いますけれども、コミュニティがあることでの、こう、対応に関しては何か違いとかあるんでしょうかね。

[堀田]
村だからといって、団結力が低いということは決してないんですけど、特にこうやって災害を受けたからこそ、団結力が高まっている村というのもあるんですけど、このニル オズに関して言うと、まず、50代の女性が話をしてくださった、彼女が育ってきた時代には、まだ親と一緒に寝ることもなくて、子どもたちが集まって生活するというところが共同で設立されているような状態で、最近の子どもたちは親と一緒に寝ているんですけど、なので、本当にまさに昔ながらのキブツとして生活してきたと。彼女が言っていたのは、今回亡くなった人、拉致された方が25%という中で、自分にとっては兄弟なんだと、すごく強くおっしゃっていましたね。ただの隣人ではなく、兄弟が亡くなった、兄弟が拉致された。なので、非常に心の傷は深い。ただし、こうやってみんなでサポートしながら、毎日生活できているというのは、一つ心の支えだとおっしゃっていましたね。さらに、ニル オズに関しては、どんな産業があったかというと、農業もそうなんですけど、非常に成功していたのが、壁とかに塗るペンキですね。イスラエルでナンバーワンのペンキ会社を持っていました。あとは、キッチンとかバスルームとかにあるシリコンみたいな、水漏れを防ぐようなもの、こんなものも作っていたりして、ちょっとずつ事業に関しても再開する目処を立てつつあるみたいなこともおっしゃっていました。

[江良]
でも実際そういうこう、テロというか、戦争というか、それだけの周りの家族の1/4を一気になくすということでいうと、なにか、そこで、あれですか、旦那さんの活動の中で、心のケアとか、そういったところをご支援されたりしているんでしょうか。

[堀田]
そうですね。まず、こういう災害が起きると、一番最初に何をすべきかというと、子どもたち。特に日本はちょっと子どもが少ない国になっちゃいましたけど、イスラエルの場合、まだ子どもが3人、4人、一家にいるような場所です。そうすると、子どもたちが日常に戻れることが、一番の親の時間を作る方法、親の生活を取り戻す方法になります。なので、子どもの遊び場支援というものを作り、そこにはただ単に遊ばせるのではなくて、セラピストも滞在させて、アートセラピーであったりとか、子どもたちがトラウマの発症を抑えられるような、そんな施策を設けています。あとは、学校システムも、全然違う場所に来てしまって、いきなりホテル生活になってしまって、学校というものがなくなってしまったので、保育園の機能であったりとか、小学校の機能であったり、そんなものを作るということで、夫の団体がやっています。実は、このエイラットという場所は、人口3万人しかいないような場所なんです。そこに6万人の避難民が来たんですよね。それは大変なことで、学校とかもローカルスクールに入れてあげるっていう、そんな余裕はなくて、なので、野外学校という形で、なんだかアフリカを見ているかのような気持ちになりましたけど、テントで作ったような学校を作ってというのが、イスラエイドの活動としてあります。

[江良]
そうですよね。建物もないし、先生もいないし、子どもが学校に行けないと、大人の方がずっと面倒を見ていないといけないし、他にもいっぱいやることもあるし、でも、その悲しみみたいな、とりあえず、いろいろ子どもの面倒とかも見たりとかありますけども、悲しみみたいなところって、東日本大震災でもそういうところもちろんありましたけれども、それだけ一気に、ご家族と、家族的な近しい方がコミュニティから一気にいなくなるっていうのは、何かダメージとしては想像がつかないですね。実際にこう拝見されて、何かどんなふうに感じられました?

[堀田]
正直、何人かの方々とお話ししたんですけど、悲しみを味わう時間がないような感じがしました。まず生活をなんとか取り戻しつつ、と言ってもホテルなんですけどね、子どもたちに必要なサービスを提供し、亡くなったご家族、あと、拉致されている方々のご家族に寄り添い、そんなことをしているうちに毎日が経っていって、実はエイラットというのはすごく綺麗なバケーションプレースで、スノーケニングとかスキューバダイビングとかもすごく有名なサンゴが綺麗なところなんですけど、ここのホテルにはリゾートホテルなんですごく綺麗なプールがあるんですよね。10月7日以降誰一人泳いでる人を見たことがないっていうふうに言っていました。実際私が訪問した日も、誰一人プールの中に入っていなくて、すごく暖かくて泳いだら気持ちいいだろうなというような日だったんですけど、みんな建物の中のロビーに集まって、新聞を読んだり子どもたちの世話をしたり、そんな淡々と時間が経つのを皆さん待ってるような、そんな感じでしたね。

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[江良]
ここは本当に長い時間が当然必要なんだと思いますし、この中で堀田さんたち、堀田さんの旦那さんも含めて、そういった支援が続いていくっていうのは少しでも何回やれることだと思うんですけど、これちょっと後でもご紹介できればとは思ってたんですけど、ちなみにそういう子どもたちの支援とか、僕たちというか日本側からも例えばドネーションできたりとか、そういう日本からも何か参加だったり、少しでも手伝いできる方法って何かあるんでしょうか。

[堀田]
はい。イスラエイドのドネーションリンクがあるので後ほどお伝えします。

[江良]
ありがとうございます、何か本当に、これイスラエルに限らずですけれども、子どもたちとか実際そこで被害を受けてらっしゃる方に、生活がやっぱり1日でも早く、普通に元通りにというか、普通に日常が戻っていくようなことが、まずは争いというか戦争が、もう少しでも早く止まっていくことが、大事だとは思いますが何か日本からでもできることは、ぜひ探していければなとは思っていました。あとそのキブツ、ニアオズの避難のところに、この前行かれたということですけれども、何か他もいくつか、行かれたところのお話伺ってたんですけれども。

[堀田]
そうですね、40くらいの中の大体、6個、7個くらい訪問して、エイラットにあるところ、あとは死海にあるところを訪問しました。なんでエイラットと死海かというとホテルが空いてたから政府がそこを貸し切って、プラス、ガザからも遠いのでミサイルのリスクも少ないということで、土地として選ばれています。この人たちと話をしていると、江良さんがおっしゃった通り、まさにすごくリベラルな人たちだったんですよね。ガザの人たちだったりとか、パレスチナの方々との共存を目指すような。多くの人たちが平和の活動家であったりとか、あとは個々人がボランティアとしてガザで病気になった人たちを自分の車でテルアビブの病院まで搬送したりとか、そんなことを日常的にやっていた方々というふうに聞いています。なので毎日仕事を共にしたりとか、工事の方で家に入っていただいたり、そんなことでガザの方々とは交流があり、お母さん方が言っていて印象的だったのは、自分はここで子育てをすることに一番最適だと思って、ここに住んでいたと。全くこんなことが起こるなんて想像もしなかったし、信じられないことだと、そんなことを多くの方々がおっしゃっていました。後々振り返ってみると、ガザから2キロのところに住んでいて、よくミサイルも飛んできていたんだということを思うんですけど、でもここの人たちにとってはこの生活が普通で、古くからのキブツなので70年60年前に設立されたキブツで、ずっと先祖代々も住んでいて、そこで育った子どもたちがまた結婚して、家族を作ってという形で住んでいて、ここがこんな被害に遭うなんて想像もしなかったことを皆さん口を揃えておっしゃっていました。一人の女性の話がすごく印象的で、まさにこういう話をしてくださったお母さんなんですけど、彼女は16歳と13歳の息子さんをまだ待っているところです。

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この3日間で拉致された方々が解放されていますけど、その中にはまだ入っていなくて、なんとかあと残った日にちで早く解放されることを祈っているんですけど、本当に強い口調ですごく強い女性で、おっしゃっていたのは、息子たち、週末だったので、あとは祝日の最後の日だったので、おじいちゃんおばあちゃんのところに預けてたんですよね。なのでお母さんは近くにはいなくて。おじいちゃんおばあちゃんのところにいた息子さんたちが、彼女のご両親は殺害され、こどもたちは捕虜になっているわけなんですけど、お母さんに電話してきたんですって。彼女が言っていたのは、最後に息子たちが電話してきた時に、息子たちが言っていたのは、若すぎるから取らないでくれっていうことを叫んでいたと。I'm too young. Don't take me.これが最後に言っていたことで、このお母さんは日常的には非常に忙しいコンサルタントをされている方で、息子からの電話っていうのは厄介だなっていつも思っていたんですって。この50日、もう52日になりますけど、この52日間っていうのはずっと息子からの電話を待っているんだっていうことをおっしゃっていて、非常に心が痛くなりましたね。あともう一つシェアさせていただきたいなと思うのは、ご家族がいて、お父さんお母さんあとは子どもが3人、この人たちもテロリストが来た時に、ハマスが来た時に自分たちの家のシェルターに隠れたと。シェルターに隠れていたらハマスが入ってきて、シェルターのドアを開けようとしたりとかシェルターに対して発砲したりとか、っていうことをしたと。ただしうまくドアを開けることができなくて、そのまま彼らは10時間そのシェルターに隠れていたと。ハマスが入ってきて何をしたかというと、すぐに電気の電源ボックスに行って、シェルターの電気だけを消したと。それも10秒ぐらいの間に。その後に女の子たちが入ってきて、キッチンでご飯を温めて食べて、Netflixを見始めて、笑いながら歌を歌って、服を選別して、好きな服は持って行って、そんなことがあったと。なのでハマスだけではなくて、ガザの一般市民もこの日は来て、なんですかね、スクールトリップに来たような感じなんでしょうかね、イスラエル人の生活を経験して、5時間その子たちは居座って、それで帰っていったということです。

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というような感じで、すごく信用していて、こんなことが起こることもないと思っていたところに、ガザの一般市民まで来て、自分たちの家を破壊していったと。ここで失われた信頼というものは、すごく大きいだろうなと思います。
この信頼は簡単に再構築できなくて、ガザの信頼、あとは10時間シェルターにいて、それでもイスラエル軍はすぐには来なかったわけですよね。ものすごいテロリストがいたので、そんなに簡単に入れなかったのが実態なんですけど、すぐに救出されることもなかった。いろんなところで分断されてしまった信頼というものが、一番信頼が大きかったリベラルのコミュニティのこの人たちの信頼を失ったというものはものすごく大きな打撃なんだろうなと思います。

[江良]
そうですよね。お母さんの話とかも、聞くだけで本当に辛くなるような辛くなりますね。でもそんな堀田さんが実際に拝見されてきたこと、本当に辛いお話とか辛い経験とか、僕たちなかなか日本にいると知り得なかった情報なんですけれども、でも先ほどこれ始まる前に堀田さんと話されているときは、それでもやっぱりどうやってみんなで共存できるかとか、どうやって橋渡しができていくのかとか、やはりそういうところに対しての、堀田さんの伝えたいというか考えられていることはやっぱりそういう方向のことで、そういうふうに考えていらっしゃる方は、イスラエルの中にもたくさんいらっしゃるというような話もされていましたけれども、どこから切り口を出せばいいかですけれども、やはりその、共存ということで言うと、今信頼がこれだけこの2ヶ月で今まで築き上げたものとか、いろんなものがなくなってしまった。逆にネガティブな方向に、不信の方に大きく触れてしまった中で言うと、どういうようなアプローチがあるのか。堀田さんの方で簡単に答えいただけるようなものでもないかもしれないですけれども、堀田さんの見えているところで、何かお話しいただけることはありますか。

[堀田]
そうですね、一人素敵な女性がいて、この女性はビビアン シルバーさんという方なんですけど、実は夫のメンター的存在の方でした。彼女はずっと拉致されているというふうにカウントされていたんですけど、私たちがまさにこの地域を訪問していた約10日前に死亡が確認されました。身元確認ができなかった遺体の中に実はいて、10月7日にすでに亡くなっていたということが発見されました。

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彼女というのは20代の時にカナダから移民としてイスラエルに来た方で、その後もずっとイスラエルでのユダヤとアラブの共存に尽力された方です。彼女が作った活動がたくさんあるんですけど、その中の一つを私も訪問してきました。アジークというNGOで砂漠とかに住んでいるアラブの遊牧民。イスラム教の人ですね。遊牧民の方々の支援活動をしている団体で、イスラエルでは一番大きなものです。彼女の団体の人たちに会った時にみんなが声を揃えて言っていたのは、ビビアンさんのことがあったからこそ、アラブとユダヤを切り離すことができない。特にこのエリアで切り離すことができないことがよくわかったと。二カ国解決であったりとか、いろんなものがあるけど、どこに線を引いたとしても、アラブ人とイスラエル人が共に暮らすしかない。それがこの土地だと。それがよくわかったからこそ、彼女の死で、特によくわかったからこそ、ますます力を入れて共存できるような体制を構築しなければいけない。ここの団体のビビアンさんと一緒にお仕事されていた方々はビビアンさんの名前を使って、この共存、共に生きる活動をますます大規模に支援していきたいとおっしゃっていましたね。イスラエイドもこの団体と共に支援活動をしています。これは一つの事例でしかないんですけど、もうちょっと北の方にあるハイファという港町。ここも元々アラブとユダヤがうまく共存していると言われた町です。ここでイマーム、イスラム教のリーダーですね。彼が呼びかけをして、何回か対話の場が開催されています。毎回500人であったりとか700人であったりとかが参加して、アラブ人、ユダヤ人がどうしたらこの状況を回避できるのか、どうしたら共に生きられるのか、そんな話し合いが連日されています。
ということで、信頼というものを失ったという、危機的な状況ではあるんですけど、その中でもなお共存を目指したい。または日常を共に取り戻したいという活動が行われているので、こんなところが光に、唯一の光かなというふうに思っています。

[江良]
多分ね、イスラエルの中にもいろんなお考えの方がいらっしゃって、いわゆる、右翼的な方もいらっしゃるし、左翼的な方ももちろんいらっしゃるんでしょうけど、そういう形で言うと、今そういうふうに、どうやって共存していけるかとか、対話をしていこうとか、そういう声というのは、マジョリティなのかマイノリティなのか。日常の堀田さんの感覚からすると、どんなふうに思われますか?

[堀田]
そうですね。残念ながら、今日この時点でマジョリティかというと、半々くらいかなというような感じです。なぜかというとやっぱり怖かったですし、隣にアラブ系の人たちが立っていたら、ちょっと遠ざかろうかなという、私もそんな気持ちになるんですよね。もしかしてこの人が私に何か、危害を加えるんじゃないのかという妄想があったりするんですよね。実はこれっていうのは、2005年まであった自爆テロと一緒なんです。90年代後半から2000年、2005年ぐらいまで、イスラエルではバステロであったりとか、自爆テロが多発していました。これもハマスがやったものなんですけど、そうするとアラブ系の方々がバスに乗ってくると、ちょっと降りようかなってみんな思った。そこのトラスト、信頼というものが、やっとこの15年ぐらいで形成されて、隣にアラブ人がいても、安心して、レストランに行ける、バスに乗れる、という環境が整っていたんですけど、今正直隣にアラブ人が来ると、大丈夫かな?ちょっと気持ち的に、不安だな、っていうのが多分多くのユダヤ人が持っている気持ちだと思います。私自身も持ちます。だから一回崩れた信頼を取り戻すのは、時間がかかると思うし、こんなにリベラルだったキブツの人たちが信頼を失ったって言っているって、これは大きなことだと思うので、時間はかかるでしょうけど、今半分ぐらいで共存の動きっていうのが、過半になることを、早く過半になることを祈っています。

[江良]
本当にそうですよね、実際にそのキブツで起きてしまったことっていうのは、本当に今までの隣人、信頼してた友人たちが、そうじゃなかったということ結果的にそういうことですもんね。それは僕が多分同じ立場に立ったら、真っ先にもしかしたら武器を持って突撃とか、武器持とうみたいなことをやっててもやってないとはちょっと言えないですよね。なんかそれは、そこら辺って、やっぱり日本はおっしゃった通り、戦争っていうのがあまり身近じゃないし、戦争っていうのはもちろん太平洋戦争はありましたけども、やっぱり平和な環境の中で、あんまり外から自分たちを守るという、そういうようなことも、あんまり主体的に考えなくてもいい、特別な環境なんだというふうにも本当に思いますけれども、少し今回の堀田さんの話を伺って、そういう状況に、今少なくともイスラエルの方々はいらっしゃるし、多分ネパレスチナ側も、そういう命ということで言うと、また違う意味でいろんなストーリーがあるんでしょうし、日本の僕たちからやっぱり少しでも好奇心を持って知って、その中から関わっていこうというふうに、少しずつ思えるようにしていくしかないんじゃないかなと思うので。今日本当ごめんなさい。ちょっとつらいお話もいろいろ伺ってしまったと思うんですけれども、本当に、この分断が、分断っていうのはアメリカでもありまして、日本の中でも本当にいろいろな分断っていうのが言われてますけれども、本当にいろんな分断の中でいろんな争いがあって

[江良]
堀田さん、まずこの、イスラエルの旦那さんの団体イスラエイド、このドネーションリンク(寄付リンク、英語)、今聞いていただいている方はkurkku alternativeのウェブサイトからリンクで飛んでいただけます。あと何か今日本にいらっしゃる方に、何かできることとか協力してほしいこととか、もしくは何か共有したいこととか、もしあればお願いしたいと思いますけれども、いかがでしょうか。

[堀田]
そうですね最後一つだけシェアさせていただくと、子どもたちが描いた絵っていうのがあるんです。

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これは東北の子どもたちが描いた絵も私も見ましたし、あとはシリアの内戦からの難民の子が描いた絵も見たりとか、いろんなところでアートセラピーで子どもたちが描いた絵っていうのを見てきたんですけど、子どもって本当に一緒だなというふうに思って、東北の子どもたちも、当初、震災が起きたすぐに黒いクレヨンをよく使っていたんですよね。で今、あとイスラエルの南部の子たちもよく黒いクレヨンを使って絵を描いています。それがちょっとずつ実は虹に変わってきたんです。虹っていうのはアートセラピーのセラピストをいわく、昔から過去と未来をつなぐ架け橋だっていうふうに言われているらしくて、これを描くっていうことは前に少しだけ動き出すことができた。前進することができたっていうそういうサインなんだっていうことで教えてもらいました。こういう絵を見ているときに東北で感じたものとすごく似ていて、この中には生存して苦しんでいる人たちもたくさんいるんですよね。東北でも隣の家は流されたけど自分の家は大丈夫だった。隣の人は亡くなったけど自分は大丈夫だった。生き残ったのにそれがハッピーではない、生存者のギルトみたいなものが非常にあったなというふうに思っていて、実はこの方々も同じことを考えている。なので、ニュースでは何人亡くなったとか、あとはどんなミサイルが飛んできているとか、そんなことしか見えないかもしれないんですけど、実はみんな同じ気持ちを持った、子どもであったりとか、人なんだなって。日本でもそうだしシリアでもそうだし、あとはイスラエルでもそうだしっていうところをすごく思いました。なので、できたらそういう遠い国の子たち、というふうに見ず、身近なこととしてこの話を聞いていただけたらいいなというふうに思っています。

[江良]
ありがとうございます。堀田さんを通じて、今日これを聞いていただいた方は、すごい心に届いたんじゃないかなと僕はすごい思いましたし、そういった意味で今日本当にお忙しい中で、しかもちょっと辛い話を共有していただいたことに、本当に心からお礼申し上げたいと思います。どうもありがとうございます。

[堀田]
ありがとうございます。

[江良]
じゃあ今日はこの辺で終わりにしたいと思いますけども、また今度、少しでも軽い話もできるようなタイミングでまた堀田さん、堀田さん実はまだお会いしたことないですもんね。

[堀田]
そうなんですね。毎回世界のどこかから話してますね。

[江良]
すみません。いつも僕たちが聞きたい話を一方的に伺っちゃって。でも本当に感謝しています。ありがとうございました。

[堀田]
ありがとうございます。

[江良]
じゃあ今日は、改めまして堀田真代さん、NacreArc創業者兼CEOの堀田真代さんにお話を伺いました。どうもありがとうございました。

[堀田]
ありがとうございます。


追記:収録の翌日、拉致されていた二人の少年、Yagil Jacob君、Or Jacob君の解放が確認されました。
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(引用: ynet news)


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#009: 保良雄さん: アーティスト: 存在を存在として認めること

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#006: 四井真治さん: パーマカルチャーデザイナー: ご自宅に構築された農的なくらしを支える循環型システム

#005: 四井真治さん: パーマカルチャーデザイナー: 四井さんのこれまでと、農的な暮らしのすすめ、風越学園とのプロジェクト

#004: 意識する都市の課題

Projects

alt-Tokyo

alt-Tokyoは、都市生活と循環にまつわる課題を学びながら、一緒に取り組めるオルタナティブな仕組みを作るプロジェクトです。ポッドキャスト配信中。

Reborn-Art Festival

宮城県石巻市を舞台としたアート、音楽、食の総合芸術祭。被災地が前に進むエネルギーを生み出すため、地域の魅力や人々とアーティストとの交流から作品を作り、地域と都市の交流を生み出すことを目的としています。

東北コットンプロジェクト

東日本大震災の津波により稲作等が困難になった農地で被災した農家が綿(コットン)を栽培、紡績から商品化・販売を参加各社が共同で展開することで地域支援を行うプロジェクトです。

プレオーガニックコットンプログラム

インドでオーガニックコットンへの移行期間に収穫された無農薬綿を買い取ることで、農薬被害が存在するコットン農家のオーガニック農法への移行を支援するプログラムです。

関連Projects

KURKKU FIELDS

千葉県木更津市にある農と食とアートをテーマにした、これからの人や社会の豊かさを提案する「サステナブルファーム&パーク」。株式会社KURKKUが企画・運営しています。

Company

株式会社 kurkku alternative
代表取締役 江良 慶介
hello@kurkku-alt.jp

江良慶介
慶應義塾大学環境情報学部卒業。1999年よりシスコシステムズ合同会社など外資系IT企業に5年間勤務の後、バックパッカーを経て、2005年にKURKKUへ入社。2007年より、インドで農薬被害に苦しむコットン農家のオーガニック農法への移行を支援する「プレオーガニックコットンプログラム」を伊藤忠商事と共同で立ち上げ、年間約1,500農家の支援を実施。2011年、グッドデザイン賞サステナブルデザイン賞(経済産業大臣賞)受賞。また、3.11以降、津波により稲作ができなくなった農地にコットンを植え、雇用創出と地域再生を目指す「東北コットンプロジェクト」を発足させ、プロジェクトの事務局代表を務める。2012年3月より、ap bankにて復興支援事業を担当。2016年よりアーティストの力で地域の内側からの復興をうながす「Reborn-Art Festival」を立ち上げ、制作委員、副事務局長を務める。2020年より株式会社KURKKU、並びに株式会社KURKKU FIELDS代表取締役社長。2022年、株式会社kurkku alternativeを立ち上げ独立。
Twitter : @era_keisuke