#020: 浜野安宏さん: 映画監督、ライフスタイルプロデューサー、生活探検家: さよなら東京、経済原理主義の日本、琵琶湖でのプロジェクト、山に入ること、現場を歩くこと




浜野安宏
株式会社浜野総合研究所代表取締役社長。特定非営利活動法人、渋谷青山景観整備機構専務理事。財団法人ビーチ&フィールド保護協会理事長。通算省沖縄海洋博周辺調査委員。中国人民大学名誉客員教授。そしてFROM-1st、東急ハンズ、AXIS、QFRONT、Q-AX、青山AOなどを総合プロデュース、商業コンサルタント、その他、多数のプロデュース。神戸ファッションタウン、横浜港未来都市デザイン委員など、多くの公的活動も歴任。現在も渋谷、青山を拠点にアジアへの活動を広げる。主要な著書に「ファッション化社会」、「質素革命」、「浜野商品研究所コンセプト&ワーク」、「人があつまる ー ストリート派宣言」、「生活地へ-幸せのまちづくり-」、「はたらき方の革命」、「TRAVELING WISDOM(DVD)」、 映画「さかなかみ 」FFIフライフィッシャーインターナショナル2年連続上映。映画 「カーラヌカン」GACKT主演、沖縄映画祭招待、京都映画祭招待。映画「COUNTRY DREAMER-私の道、生きる!」他多数
facebook : yasuhiro.hamano

「ANKOW浜野安宏サヨナラ東京絵画展」: 10/14 (土) - 11/30 (土)
琵琶湖への移住に向けて10/14から開催されている「ANKOW浜野安宏サヨナラ東京絵画展」も11/30まで。最終日11/30 (土)は19時から建築家でもありジャズシンガーでもある小高由紀子さんを招いてクロージングパーティが開催されます。浜野安宏作詞「サヨナラ東京」のお披露目となります。下記URLよりお申込みください。


Key Words: 
株式会社浜野総合研究所 (TEAM HAMANO), NPO法人渋谷青山景観整備機構 (Shibuya Aoyama Landscape Formation Organization, N.P.O.), 財団法人ビーチ&フィールド保護協会, 沖縄国際海洋博覧会, 中国人民大学, FROM-1st, 東急ハンズ, AXIS, QFRONT, Q-AX, 青山AO, 神戸ファッションタウン, 「ファッション化社会」, 「質素革命」, 「浜野商品研究所コンセプト&ワーク」, 「人があつまる - ストリート派宣言」, 「生活地へ - 幸せのまちづくり」, 「はたらき方の革命」, 「TRAVELING WISDOM(DVD)」, 「さかなかみ」, フライフィッシャーインターナショナル (Fly Fishers International), 「カーラヌカン」, GACKT, 沖縄映画祭, 京都映画祭, 「COUNTRY DREAMER-私の道、生きる!」, 「浜野安宏コンセプトインデックス」, マイケル グレイヴス (Michael Graves), 中内㓛, 高秀秀信, ダイエードーム, 増田宗昭, 三浦守, 「Weの時代」, 造像団, 前澤友作, ZOZOTOWN, ベンジャミン ロスチャイルド, BNPパリバ, 安藤忠雄, コレツオーネ (LA COLLEZIONE), 東亜樹, 熊野古道, 近江神宮, 延暦寺, 東寺, 二月堂, 弘法大師, 神仏混淆, 出羽, 風蘭, 淺間神社, 毛鉤, 吉良竜夫, 嘉田由紀子, 羽村取水堰, メザニン (Mezzanine), ANKOW MUSEUM, ANKOW STUDIO, 町屋, 錦市場, スティーブ ジョブス (Steve Jobs), フランク ゲイリー (Frank Owen Gehry), ダグラス トンプキンス (Douglas Tompkins), 倉俣史朗, MUGEN, John Lennon「Mother」, SOMETHING ELSE, EDWIN, 柳井正, Crystal King「大都会」, Intercontinental, Pan America, パシフィックコンサルタント, ヌサデゥア (Nusa Dua), イヴォン シュイナード (Yvon Chouinard), ヨセミテ (Yosemite), エル キャピタン (El Capitan), ハーフドーム (Half Dome), グランド ティートン, パタゴニア (Patagonia), スリーピング インディアン (Sleeping Indian Turnout), グランド ティトン (Grand Teton), クレア シュイナード (Claire Chouinard), フレッチャー シュイナード (Fletcher Chouinard), エンバイラメントアート (Environmental art), 横尾忠則, 一柳慧, stag, 島地勝彦


エピソードを読む:
[江良]
今日は映画監督で、ライフスタイルプロデューサーで、生活探検家の浜野安宏さんをお迎えしております。今日はどうぞよろしくお願いいたします。まず最初に僕のほうから浜野さんのプロフィールをご紹介させていただきます。株式会社浜野総合研究所代表取締役社長。特定非営利活動法人、渋谷青山景観整備機構専務理事。財団法人ビーチ&フィールド保護協会理事長。通算省沖縄海洋博周辺調査委員。中国人民大学名誉客員教授。そしてFROM-1st、東急ハンズ、AXIS、QFRONT、Q-AX、青山AOなどなどをですね、総合プロデュースされ、商業コンサルタントその他、多数のプロデュース。神戸ファッションタウン、横浜港未来都市デザイン委員など、多くの公的活動も歴任されました。現在も渋谷、青山を拠点にアジアへの活動を広げていらっしゃいます。主要な著書に「ファッション化社会」、「質素革命」、「浜野商品研究所コンセプト&ワーク」、「人があつまる ー ストリート派宣言」、「生活地へ-幸せのまちづくり-」、「はたらき方の革命」、「TRAVELING WISDOM(DVD)」、 映画「さかなかみ 」、これはFFI、フライフィッシャーインターナショナル2年連続上映。映画 「カーラヌカン」これはGACKTさん主演で沖縄映画祭招待、あと京都映画祭招待。あと映画「COUNTRY DREAMER-私の道、生きる!」他多数と、もうプロフィールだけで、ご紹介だけで1,2時間軽く終わってきそうな気もしますけども、今日、浜野さんは僕の大学の友人である井田順子さんが長年師事されてきたということで、井田さんのご紹介で、今日お話し伺う機会いただきましたので、今日、井田さんにもちょっと入っていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

[井田]
よろしくお願いします。

[江良]
井田さんは大学の時に浜野さんの研究所に飛び込んでいかれたみたいな。

[浜野]
私がスカウトした、というか美容師に紹介されたんです。

[江良]
その話聞きましたね。成城の中で紹介されて、順ちゃん、と呼ばせていただきますけど、どんな感じだったんですか?



[井田]
ちょうど大学3年生が終わる頃だったんですね。あの時。私は実は浜野さんの著書の中でも非常に人気のある「コンセプトインデックス」は高校生の時から実は手にしていて、表紙のデザインをされた八木保さんが、わざわざサンフランシスコから送ってきてくださったんですね。浜野さんの存在は知っていて、こんな世界があるんだ、ってことは高校生の時にものすごく心が躍る思いで毎日見ていて、そのヘアサロンの方からのご紹介で、偶然こういう幸せな偶然で、出会うきっかけがあって、そこからインターンで行く形になって、ちょうどQFRONTですよね、あのプロジェクトを実はやっているよということで声をかけていただいて。そこからそのままインターンから就職をして、今でも浜野さんから教えていただいたことが、私の全部ベースになっているので、今日はいろんな話をお聞きできればと改めて思っています。はいそんな感じです。

[江良]
でも最初の浜野総合研究所に入られた時何年くらいですか、99年?

[井田]
2000年ですね。1999年からインターンが始まって

[浜野]
1999年にQFRONTができたんですよね。だからそれまでどちらかというと横浜にオフィスを移していたんです。会社ごと、家まで、マイケル グレイヴスにデザインさせた公団住宅にどうしても入らないとこのプロジェクトが成立しない事情があって、上を買ったんですよ。それが大失敗の始まりなんだけど、結局その後バブル崩壊して、横浜の街づくりがなかなか思うように進まないし、おまけに市長が死ぬし、あの市長にかわいがられたからいろいろ話があった。それで東京へ帰らざる得ない、本当に言うとね、ダイエーという大きな小売業があって、今は無くなったんだけど、死んだ中内さんの非常に、あの私は、懐刀だったことがあって、中内さんにダイエーの全社を横浜に集めたら、2ヘクタールの土地をタダであげるように交渉してあげますけどどうですか?という話をしてですね、市長がok出て、中内さんも大プロジェクトで、2ヘクタールのビルをマイケル グレイヴスに設計させて、やれることになってたんですよ。市長が死んで、新しい市長が、高秀さんという元は、市長が死んだ後、高秀(さん)、この人も亡くなったけど、この人は国交省から来られた方で、要するに日本水資源公団の総裁だった人が市長になってきたから、僕とはもう水と油で、ダムを作ったらいかんという人と、ダムを作る偉い人とが街で出会っちゃって、山の恨みをまぁ、海ではらされて、あらゆる公職から外されたんですよ。役人怖いですよ。それで結局中内さんも、そのプロジェクトやれずに、ダイエードームなんか買っちゃったもんだから

[江良]
それでユニフォームのプロデュースとかもされたんですね?

[浜野]
だから全部つながってるんですけど、だから僕は横浜に居れなくなって。

[江良]
ダイエーも、そういう2ヘクタールでプロジェクトやったら、今も名前残ってたかもしれないですよね。

[浜野]
すごいですよ。だから大変なことになってたと思う。

[江良]
今も名前残ってる? 名前は残ってるけど、会社が残ってない。

[浜野]
そんな感じで、QFRONTの仕事がなんとか得られたので、その時に私の勝手に弟子だとおっしゃってる、TSUTAYAの増田さんに、渋谷の駅前で古いビルがある時に、まだ携帯電話ってごっつい電話だった時代にね、それでお前、ここにこんなポンコツビルがあるんだけど、これ全部使っていいってなったらお前やるかって言ったら、それはやりたいですよって言うから、今からオーナーに会いに行く、東急百貨店の会長だった、人に、三浦守さんっていう人に会いに行くけど、お前どうやって。いやそれやりたいです。やりたいって言っといてくださいって。で一挙に出来上がったんですよ。そこで。三浦さんもあれもう、うちの社員がなんぼやっても儲からない、儲からないって言うから、いつまでも出来ないでほうってあった場所なんで、こんな日本一場所ほうってあったらもったいないですよね。僕は、僕に全部任せるんだったら、テナントもTSUTAYA一本で行きたいと。妙な小細工したら失敗しますよと言って。それで、いやお前やれるならやれや、って言って。であれ、どん底景気の時で、あれ50億で売ろうと思っておられたんですよ。



[江良]
なるほどなるほど。

[浜野]
で私は50億かかりますよ。とさらに、だけど出来上がったらね、おそらく100億以上で売れますから大丈夫ですよって言って。

[江良]
すごい話ですね。スケールが。

[浜野]
結局170億で売れたんですよ。

[江良]
そうですか。すごいですね。

[浜野]
今もっと値打ちあると思います。

[江良]
今、じゃ、誰が、TSUTAYA側がオーナーになってる。

[浜野]
TSUTAYA側じゃないですよ。TSUTAYAはテナントで

[江良]
別のオーナーさんで。

[浜野]
あれは結局SPCが買って、それでそれはまた東急グループが買い戻したと。

[江良]
なるほど、またなんかさっきから、ちょっとスケールが大きすぎて、いきなり

[浜野]
私はスケール大きくないんだけど、

[江良]
いやいや

[浜野]
勝手に、これ何とかしなあかんなと思ったことからそうなっていったわけで、たまたまTSUTAYAの増田が、私の「ファッション化社会」を読んで、今の企業を立ち上げたってみんなに言っておられますから

[江良]
でもそうですね、今TSUTAYAの増田さんがやってらっしゃるようなこともね、そういう意味だったらすごい大きな影響を受けてらっしゃるんでしょうね。

[浜野]
そのあなたが持ってきた「Weの時代」の、これを財宝にしてる超大金持ちになった男もいますよ。

[江良]
そうなんですか?

[浜野]
これを財宝にして、大金持ちになった男はですね、もともと私の35歳までに何ができるかって本、それが文庫版になって35歳までに伸びる人縮む人というのがタイトルの本になって、それを真っ赤っ赤になるくらい読んでうち来たんですよ。前澤友作は、友作っていう名前は、うちの父親の名前は友作なんですよ。父親の名前まで一緒なんやから、お前アメリカの私の家まで遊びに来いと、まだ上場もしてる前ですよ。すぐ来たんですよ、フライフィッシングぐらい覚えろよって。それが、やってるかやってないか知らないけど、フライフィッシングで一応魚一匹釣って帰ったんですよね。その時のことで彼はZOZOTOWNっていうのを作って、最後売って大金儲けするわけですよ。だからいっぱい私をルーツにして大金儲けした人はいっぱいいるわけです。私はスタートアップをさせるんだけど、自分では儲けてないですよね。一番でっかいのはあの、ベンジャミン ロスチャイルドって、亡くなったたけど、ロスチャイルド家の中心人物ですよね。あれはスイス銀行の部屋で、BNPパリバっていうとこのお偉いさんと一緒に昼飯を食った。その時になんか面白い話をお前色々してるそうだなっていうから、いや表参道、今、日本の企業誰も目つけてないから、今のうちに買いまくれって言ったんですよ。彼は色々BNPパリバがこの人の言うことの通り、面白いと思うからやった方がいいって。じゃあお前も金出せと一緒にやろうやないか。お前の言うとこ全部東京の面白いファッションに行けそうなところ買うからって。私は金は出さない。で儲けなくてもいいって。やりたいことやったらええやないか。だけどお前、アドバイサーとかなんかと言うんじゃしょうがない、ちょっとしか儲かんないよって言っていて、俺は興味がないと。なんで金に興味がないんだと言うから、金に縛られたくない。だからあんた見てたらすぐ何時にどっか行かないかとか言って、こうやって俺と会ってるだろうと、金のためだろうと。そんな人生にしたくないと、言う話をした。変わったやつだなって言って別れたことが、それ以上会ってないんだけど。彼は買いまくったわけですよ。ルイ ヴィトンのいろんなやつが現れちゃ買っていって、今があるんですよ。ここね、街ね。だけど僕はFROM-1stを作ってるから、FROM-1stを作った頃、まだ表参道は全然死んでたわけ。だから本当あの頃、もっとみんなが目つければもっと面白くなった。日本の企業もね。ただ僕の言うことを聞いて買った会社が2つあって、1つはAOKI、例のオリンピックで捕まった青木と、それとすぐ名前が先に出てこなくなって、石川県の向こうは何だ何県、福井県?富山県?、富山の卵屋なんですよ。

[江良]
卵屋さん?

[浜野]
卵屋の、あの人の名前はまた忘れちゃった。あのおじいさんは、がめついおじいさんで、俺の話聞いたらすぐ買ったんですよ。その買った所、どこだと思います? Apple Storeのところですよ。

[江良]
おーなるほど。そんな時代、何年代くらいですか?

[浜野]
だから、まだ地下鉄もできない頃。僕は走り回ってみんなに買え買えって言ってたんです。その写真もありますよ。

[江良]
すごいですね。

[浜野]
別に買え買えって言ってるけど、僕はあんまり興味がない、それで儲けようと思うわけでも無くて、面白い街にしたかったわけですよね。



[江良]
やっぱり浜野さんの中で、星の数ほどいろんなプロジェクトを手掛けてらっしゃいますけど、成功の定義っていうのはどういうところ、お金じゃない。お金だといろんなことに縛られてるとか、そういう意味だと、面白い街になるかみたいなそういうようなところだったんですか?

[浜野]
というより、面白い街にしたい。して、そこにいたいという

[江良]
あ、お自身も

[浜野]
今、だからいたい。だから今、どうしたかというと東京を僕は去りたいと思ってるんですよね。一応やることやったと。渋谷なんか、もうニョキニョキ嫌なビルが建ってきてね、私の住んでる南青山もそんなになってきたし、渋谷青山景観の専務理事やってるけど、青山通りがやっとブルーバードになって、要するに、世界一流のブルーバードに、もう育つとこまで来たと思うんですよね。表参道よりもっとすごいのあると思いますよね。表参道は安藤がね、表参道ヒルズを森さんとやったことで、あれもう終わったと思う。あれ、もう大失敗だからあれは。ファサードとかとか、もうファサードは死んでるし、中も斜路にしたことは大間違いだし、裏側がもうアウシュビッツの壁みたいになってるから、街が広がらないですよね。

[江良]
なるほど

[浜野]
だから一軒のビルをやるということは、周辺も全部考えてやらなきゃいけない。安藤に何を言ってもそれ分からない。あの男はね。でもああいうのにも、文化勲章をあげる国やから。もう何も分かってないですよ国も。だから三宅一生は別として、文化の力をガーッとこう支えられた人じゃない。だから、だけど、安藤が偉い人みたいに思われてるのは、僕の弟子としては、非常に大間違いしたんじゃないかなと思う。僕は彼の双子の弟と会社やってたから、いろいろ教えたりもしたけど、

[江良]
結構、安藤さんと共同でやってる

[浜野]
だけどまあね、あそこでちょっと、違いが始まったのはやっぱりコレッツィオーネで、コレッツィオーネは俺は、もうこの二人とは無理だなと思った。だから、あれはお前たちでやれと。うちの仕事として受けたけど、やったのは弟と安藤だ。今見てくださいよ。もう全然死んでますよね。建物が。だからやっぱり、FROM-1stは生き生きしてますよね、まだ。その違いをよく分かってもらいたいんだけど。だから、で、私は、しかし最初に言った東京、今日あなた方に会ったら一番言っときたいことは、東京はもうすぐダメになると思うんですよね。あの、もうすぐっていうのは、一回バブルになると思うんですよ。日本も。あんなにジャブジャブにお金出してね、国債までも注い込んで、でなんとかビルが立ち上がってきたけど、ほとんど外資誘導策なんですよね、あれね。あのお金をもとにして、外資がいっぱいやってきて、空中に上がっていったんですよ。空中を今度、バブル崩壊させると、安い値段で、おそらく彼らが叩いて買うと思う。だから空中全部買ったら、これねミサイルも何もなく日本を占拠できるわけですよ。

[江良]
ああ確かに。

[浜野]
今もう、その策略にはまってると思うんですよね。だから中国の女の子がね沖縄のちっちゃな離島を一つ買って、買ったーとか言ってる、報道が出てきましたけど、

[江良]
そうなんですか

[浜野]
あんなの序の口で、空中を全部買ってしまったらね、もう日本はこれで終わりですね。次のバブルが終わって、外資がドーンと入ってきて、上を買ってしまったらもう終わるじゃないですか。それの片方を担ぐことはないよと僕は若い人たちには言いたいですよ。私は琵琶湖の方へ移って、ちょっとそれをちょっと遠望しながらね、もう死んでしまうだろうけど都市としては

[江良]
琵琶湖の方にお家を建てられてらっしゃるんですね。さっきちょっとね、収録始まる前に下坂本のね琵琶湖の

[浜野]
そうそう下坂本に家を建てました。それは父親が明智光秀の信仰者だったからということなんだ、たまたまね、この青山のこの土地で20年間やってきて、この土地の担保能力をすごい上げたんですよ。僕はこの土地で、おそらく一生働かないでいいくらいのお金をいただいたわけで、売って、女房や子どもに全部分けても、なお十分のお金ができました。何にも、一生懸命ためんでもできたわけ。どっかでちゃんとやっとけばくれるわけですよ、こうやって。それを自分は膳所というところにオフィスビルを一個買って、ちょっと大津があって、近所の下坂本に今は家を建てようとして、もう設計ができあがりましたけど。

[江良]
それは東京にもう、見切りをつけたというとあれかもしれないですけど、東京の、このどんどん建物を上に積んでいったりとか、そういうようなものからある程度距離を置いて、

[浜野]
というのが、高層ビルに興味がないんですよ。というのが高層ビルというのは、宗教でいえば邪教のうちのものですよね。あんなところ住みたいですか?働きたいですか?特に新しいメディアで働いているIT以降の人たちは必要ないはずですよね。どこでもいいわけじゃないですか。琵琶湖でもいいし、北海道でもいいわけですよ。好きなとこ行けばいいじゃないですか。だったら上いらないから、ヨーロッパやアメリカ、中国の人が分取って、よかったよかったと思っても、それもいいじゃないですか。私は愛国者ではあるけど、あまりにもひどい政治と経済。僕は今の日本の経済というのは、経済原理主義だと思うんですよ。経済のこと以外、興味持たないビジネスマンが多いんですよ。他の大事な話でもそっちの方は耳がつんぼになって、ただお金がどんだけ増えるかしか興味ない。

[江良]
興味あってもなかなか動けないみたいなのもありますよね。



[浜野]
だからもう、本当に、今だんだん、話が強烈になるようになってきた。この歳になると。

[江良]
大丈夫です。

[浜野]
やっぱり最近ね、自分のフェイスブックでも公開したんだけど、さよなら東京、という1番から3番までの演歌の詩を作ったんですよ。

[江良]
あらさすがプロデューサー。

[浜野]
僕の作曲した作詞した、「COUNTRY DREAMER-私の道、生きる!」って映画の主題歌は、今カラオケになってるんですよ。歌ってくださいね。第一興商から私にチャリン入りますから。

[井田]
おー本当に。これからみんなで歌うようにしますね。

[浜野]
いやーそれはね、東亜樹ちゃんっていう、5歳で歌うまコンテストで優勝した女の子が今13歳の時に私はその曲を歌わせたんですけど。あの、だからその、その歌の歌詞の元になっているのはあれ、むすんでひらいてってあるじゃないですか、あれ元々すごい有名な、哲学者が、フランスの、作詞作曲した、I'm so happy, I'm so happy, I'm so happy everyなんとか、という歌が元になっているんですよね。だからそれをちょっといただいて、作った歌なんです。そのサビの部分で、いわゆるなんていうかね、I'm country dreamerってとこが一番サビになってるんですけど、そのサビが一番映画の終わりの方に流れるんです。ついでですけど、この映画がハリウッドのファミリーフィルムアワードの最優秀監督賞をもらったんですよ。私、監督して4作目で、もう、そういう賞ももらってますから。監督としても認めてもらわないと困るんですけど。

[江良]
映画をいくつぐらいの時から撮り始めてらっしゃるんですか?もともと日芸の、映画科らしいですね

[浜野]
一作目は70歳ですね。「さかなかみ」っていう。これもなかなかアメリカの資源保護団体が上映してくれたりしてますから。

[江良]
失礼ですけど今、浜野さん、お幾つでいらっしゃるんですか?

[浜野]
今81ですね。

[江良]
全然見えないです。

[浜野]
これは茶髪にしてたり。

[江良]
全然元気いっぱいですね。

[浜野]
元気で、あと20年は頑張ってやりたいことがあるので。

[江良]
差し支えなければどういう。

[浜野]
これからの、今一番やりたいことは

[江良]
琵琶湖にうつられて

[浜野]
琵琶湖に住んだ理由でもあるんですけど、琵琶湖を真ん中にしてですね、日本列島を縦軸に、うちの父親が生まれたのは、能登半島の先端の珠洲というところなんです、そこを舞台にしたのはCOUNTRY DREAMERなんですけど、ずっと琵琶湖が真ん中にあって、紀伊半島の先端の熊野古道といわれる道はね、白山という山からずっと降りてきて、一応まあ、越前、そして近江神宮とかですね、それこそ比叡山の延暦寺、それから京都の東寺から、奈良の二月堂から大仏ですね、大仏っていろんな大事な仏像とかがあるんですよ、ここに。さらに琵琶湖周辺にもいろいろあって、明智光秀由来のお寺から、根本中堂がある比叡山、大峰山、高野山、これは弘法大師ですね。熊野古道に至るまでの重要仏像、寺、神社があるわけ。だけど、うちの家族を見ると、長男はもう圧倒的に、安倍晋三の大ファンで、沖縄に絶対基地がなかったらいかん、安倍晋三しか日本を救えないと思ってた。

[江良]
なるほど。

[浜野]
そのぐらいに統一教会あるぞといったような話、宗教ぐらいなんだみたいなのが息子で、私の言うことをこうよく分かんのは弟の方だったのね。新平ていうんですけど。その弟は何とか俺についてきたけど、私はその、いつかこの長男と、あの前の妻には、とは別れることになるなと思ってたわけ。こんな幸せな家があるのになんで?と思われるけど、自分はもう一つの道があると。それはやっぱり本筋、神仏混淆のね、やっぱり修験道で父親がやってる、比叡山で修行した父親のやった道っていうのは、一番正しいと思ってる。正しいっていう言い方も良くないんだけど、一番信じられると思ってる。で、要するに神道と仏教の、一番理想的な結びつきが出来上がったのが、修験道だと思って、それは頂点にいるのは空海なんですけど、要するに自分は、だからもう一つ、八十八箇所全部何回も回ったし、映画にも、COUNTRY DREAMERも八十八箇所舞台になってます。道教とね。道教もよく勉強したし、全部考えて、日本に唯一信じられるのは、神道と正統派の仏教だろうと。でこの二つを混淆したのが修験道なんで、これをちゃんと残さないといけないと。

[江良]
今でも関西の方って、いわゆる比叡山とか、修験道って残ってるんですか?熊野とかも含めて、実際残ってるんですか?その動きというか、ムーブメントみたいのは。

[浜野]
残ってるって、あの、そうそうたる、大仏もそうですし

[江良]
もちろんね、いわゆる修験道に、東北の方に復興支援で行くことが多くて、結構、出羽のほうとかね

[浜野]
出羽ありますよね

[江良]
そういうことで修行されてるというか、今でもね、回っていらっしゃる方とかいらっしゃいますけど

[浜野]
同じ修験道ですね。それはいいんですよ。全国にあっていいんですよ。ただね何か筋一本通さないとね、みんなが分からないから。だから能登半島の上、白山、琵琶湖、



[江良]
ここにも修験道のルートを

[浜野]
比叡山、大峰山、高野山という、この一本、山と川をつなぐ線がしっかりしないと、非常に、僕もこれ以上長いことを人にしゃべるのはめんどくさいから、一本筋通そうと。いっぱいあってもいいですよ、僕はこの筋を残したと。何とか、そこに若い者でも3,000円、5,000円の範囲内で泊まれる安宿をですね、ずっと作るのは、僕がやれることは宗教分からないから、あんまりね。だから安宿を提供すると。

[江良]
なるほど

[浜野]
清潔で安い宿を。世界中の若者が来て、別に神道と仏教の、日本での極度に完成されたものってこれだよと、というのを見やすい道を作ってあげたい。八十八箇所行くの大変なんですよ、四国回るのは。特に外人は分かりづらい。ここは琵琶湖があってね、白山があってね、大峰山があって、高野山があって、日本海から太平洋へ抜けると。こんなに分かりやすい道ないんですよね。真ん中に琵琶湖があって、それを地図見てるうちに見えてきたから。だからそれを、私が残せるのはこのくらいだと。いや東北やなんかやりたい人がやってくれと。私はこの道を残すと。

[江良]
なるほど

[浜野]
だからその、COUNTRY DREAMERの歌、この道は誰の道、というところから始まるわけですよ。あの映画を作ることから、そのことを考えていた。その時は八十八箇所回らせたんですけどね。映画ではね。台湾の道教と、それの指南宮という、ものすごい古いお宮さんにある占い、風蘭という占い、珍しい占いが映画に登場するんですけど、それ、二本手があって、お坊さんがそこでお祈りしていると勝手に字を書くんですよ。ふたりが同じ字を。それが一つの占いの結論になるという。どこまでが本当か分からないけど、ものすごい長いことそれが信仰されてきた。特にあの辺の金山を掘り当てたのが多いんですよね。それで。それで紫南宮もものすごい荘厳なお寺が残っていて、そこを撮影の舞台にしたんですけどね。台湾ではね。台湾でも半分お金を出してもらった映画なんですけど、台湾で上映に行けなかったんですよね。そのコロナで。日本でも割といい雰囲気で上映会進んでいたんだけど、中断せざる負えなかった。これからもう一回やる。ただ歌だけはカラオケに出てますから。

[江良]
それは歌はないといけない。

[浜野]
どんどん脱線がいくけど、結論が先出ちゃったんだけど、僕の最終的に何したいんですかって、
そんな話。

[江良]
でもやっぱり、修験道、もう少しこう、僕結構、修験道、多分この4人では一番知ってるような気がするんですけど、今ここにメンバー(スタッフ)の中で、もう少しこう修験道の、今例えばね東京にいる人たちに対して、みんなねやっぱり東京ってこのままじゃよくないよねとか、みんな感じてると思うんだけども、多分そのね、いろんな資本の大きさとか、いろんなところがあって個人レベルで何をしていくといいのか、一つはねそういう琵琶湖に引っ越しちゃうとか、ただやっぱり仕事の都合とかでできないとか、人ももちろんいるし、例えばそういう人たちに、修験道でちょっと歩いてみたらどうなのか、でもなんでこう修験道、なんなの修験道みたいな。まあ今ね、その神仏混淆でやってる、やっぱり疑いのない形というようなところは、あったけど、何ですかね今若い人たちに伝えるとすると。

[浜野]
やっぱりそれはね、簡単なことで言うと、やっぱ山と川ですね。山に行くことですね。山に父親は私の父は、山を征服したらいかん。登ったらいかん。山に入るんだと。山に入るっていうことに全ての哲学がこもってると思うんですね。例えばですよ、富士山っていうのは、非常に修験道の一つの道ですわ。ところがね、五号目まで車で登っちゃったらね、もう何もならないんですよ。もうやめた方がいい。要するにご来光を見るために行くんだったら、それは観光ですよね。それは修験道でもなんでもないんですよ。それより五号目までが捨てられたようになってるんですよ。ゴルフ場だらけになって。道というのはもうなんか、川の水を流すための道になってしまっていて。ただ浅間神社、河口湖の浅間神社のそばに、登り口がありますから、五号目まで登られてみて、ぜひ登って、この道をもう一回復活させる運動をしてほしい。そこは緑もあり鳥も鳴き、本当に美しい世界が残ってるのに、みんなそれを忘れて。おまけにね、車で登る上にさらに高山鉄道まで行こうかというね、馬鹿な経済人がいるわけですよ。知り合いではあるんですけど。例えばゴルフ大好きな人はね、僕が富士を壊したのはゴルフ場だって言ったら、ゴルフぐらいいいじゃないですかみたいな。それ以上先に行こうとしない。なんでか。なんで僕がゴルフ場問題してるかということも、なんでダイオキシン使ってまでゴルフ場を作るんですかと、言ったら、まあまあそれはと、本当にごまかすんですよ。それでSDGsとかいって平気で言ってるわけですけど、お前ゴルフやめよ、やったら。っていうのを僕に言われるわけ。釣りぐらいやってみよと思う。釣りやってますよ。ボート買うて、トローリングの買うて、スキッパーに釣らして、釣ったものを料理して食わして、これ遊びですかって。遊びじゃないんですか?って。やっぱり一匹の魚を毛鉤を巻いて、自然を研究して、一匹の魚を釣った喜びと、あの巨大な船で行って釣らせてもらって、どっちが嬉しいですかと言ったら答えられないんですよ、なかなか。それぐらい経済原理主義がはびこってしまったから。もう今度は経済原理主義という信仰から外れられない。だから僕なんかは自然原理主義に近いですよ。そういうてたね。

[江良]
でもこの今の、Weの時代とかね、あと質素革命とかもそうですけど、まずなんかね、そういう自然と、どれでしたっけWeの時代だったと思うけど、まずなんか、そう自然とね、We感覚とやっぱり自分が魚であり、魚が自分であることとか、自分が木で、木が自分で、自分が鳥で鳥が自分であることっていう、なんかこういうところから、なんかその共生とか、そういう経済原理主義じゃないような、なんかそういう思想がこう、浜野さんの場合、始まってらっしゃいますよね。

[浜野]
ですから、山を見るんじゃなくて、征服するんじゃなくて、山に入るんだという意味はね、もっぺんもっと分かりやすく、英語で言われる、アメリカのビジョンクエストの連中が見つけ出した言葉は、Thinking like mountains、山のように考えなさいと。山から学ぶんじゃなくて、山になれるかと。というThinking like mountainsというのは、山のように考えられるかというのは素晴らしい言葉で、そういう一言ですね。父親の言う山に入れるかというのと、似たコンセプトだと思うんですけど。

[江良]
そうですよね。それは本当に、東京の高層ビルのただ中にいて、山のように考えるっていうのはなかなかやっぱり難しいですね。難しい状況が多々ありますね。



[井田]
私は浜野さんの会社に最初入ったときに、一番最初に浜野さんに教えていただいたというか、よく日本って地球に優しいっていうスローガンがいろんな企業さんが使われてたんですけど、それは違いますよ。地球はちっとも優しくないんですって。だから地球に優しいという言葉を使うところから変わっていかないと、っていうことをよくおっしゃってましたね。

[浜野]
地球が優しいんで、地球に優しいって、お前どうして優しくできるんだって。もうその煙草やめやと。ペットボトルもこうやって使ってるけど、もう全部やめてかなあかんね。地球優しくできない。なかなか今の現代人はね。だから地球が優しいんだから、本当に包容力のあって優しいんだから、許されてるうちに、やっぱり我々はもっと変わらないかんね。

[江良]
でも本当、このWeの時代で何年ですかこれは。これで何年のご本ですかこれ。

[浜野]
何年やったかね

[江良]
93年?ってことは、これを20年近く、これ、Weの時代っていうね、そういう意味で言うとこの人がビジネス変えて地球を作る、ある意味もう、SDGsと一緒にしちゃって、ちょっと申し訳ないかもしれないけど、そういう質素革命にしてもね、今みんながある意味、市民権を持ちつつあるけれども、でもさっきから浜野さんおっしゃってるとおり、まだまだ今の人たちも、なんていうかこう、僕ゴルフがね、ゴルフは絶対悪いとは思わないけど、でも確かにダイオキシンとかね、そういったものをやりながら、見ないふりしてこの一瞬だけちょっとね、地球のことちょっとだけ考え、それでもいいのかもしれないですけど、浜野さんがこれ20年以上、もしくはでも、多分ね、多分、MUGENとかやられて、そんな中で質素革命でガッとこう、こっちのオルタナティブに入られるわけじゃないですか、それで何年?71年とか?だからその長い間こうやってこられて、まだなんかこう変わってきたなと思うところと、逆に全然変わんないなと思うところと、なんかこう今なら、今振り返るともっとこういうことが大事だったとか、こういうやっぱり質素革命とか、WEの時代みたいなことで、オルタナティブを提案し続けられた目から見てどういうふうに今感じてらっしゃいます?

[浜野]
あの琵琶湖に行こうと決意するのには、いくつか理由はありますね。自分は子供時代から釣りをやってたってことが大きいし、琵琶湖で釣りをやってて、自転車で琵琶湖に行くのに、大阪山まで越えて行って、釣りをやってまた大阪山まで登って降りて帰ってくる、ものすごい、行みたいなもんですよね。子供時代から繰り返し繰り返しやってて。琵琶湖をいつもこう言ってたんですよ、京都の人間が滋賀県の人を軽蔑的に見るところがある。だけど滋賀県の人が琵琶湖を守ってるから、お前らおいしい水飲めるんじゃないかと。もうすでに臭い水飲んでるだろと。あの頃飲んでたんですよ、現実に臭かった京都の水は。それは琵琶湖の水が腐ってたからですよ。それがみんなが努力をするようになって、一応琵琶湖の水もきれいになってきた。しかし疎水見てもらったら分かるけど、昔の私、父親と疎水でも釣りやってたわけですよ。疎水は底が見えたんですよ。今は見えないよね。そこに落ちてたガラスのかけらまで見えたんですよ。京都の疎水は、岡崎行ったら疎水が見えますから。見たら分かりますけど。やっぱり琵琶湖の水を疎水で引いて、インクラインでもくれるように、本当に人も川も生き生きできた。その美しい琵琶湖をもっぺん取り戻そうというので、いろんな人が努力した。私の生態学の師匠で、今亡くなられたんですけど、吉良竜夫さんという大阪、阪大市立大学の教授で、最後は琵琶湖研究所長で亡くなったんですが、そのお弟子さんが嘉田さんという、一時知事をやってた女性の、今は国民民主党だっけ、あの方のお忙しいんでなかなか会えないんだけど、彼女も一生懸命やってます。だから多くのそういう方が、宗教家も気づき始めて、そういう近江神宮の禰宜さんが私と、私が四谷が枯れての何だかんだと言い出して、お墓に一本一本木を植えろとか騒ぎ出したから、飛んでこられて、それなりの努力はしてるんですけど、一部のお寺さんがお墓、木を切ってお墓に売ったと。その結果川が枯れたというのが、いくつもあるんです。人間が墓を建てるために、木を枯らして、川を枯らしていいのかと。なんで木を枯らしたら川が枯れるんですかって。本当そういうことも分からない。木って、川って、木があるからできるんでしょうと、いうのも分からない。宮古島って山もないし川もないのに、なんでそんな人気があるんですかって僕に言われて、水が綺麗でしょと。川がないから綺麗なんです。だけど川がないところでホテルいっぱい作って、水なくなったらどうするんですかと。砂上の楼閣を作っているようなものですよね。だから本当にね、この辺しか見てないですよね。

[江良]
でもやっぱりね、都会というかね、都市の中にいて、お金で、蛇口にひねれば水出てきて、スイッチで電気やると分かんなくなっちゃいますよね、便利すぎてというか。

[浜野]
現実に上海の水の臭さを見たらね、やっぱり東京は、まだありがたい方ですよね。

[江良]
東京は、水ね、綺麗だというか、飲めるというか。

[浜野]
多摩川がね、なんとか、いいところで水通ってるから。羽田あたりまで行く多摩川は、一旦家で通って排水で出てきて、浄化された水が通ってるんで、本当に綺麗な水は、羽村取水堰あたりまでが本当の多摩川で、あとこの大東京を通ってきたカスの水だからねあっちは。それとあっちの浅草から向こうの方の水は、飲んでる人は美味しくない。

[江良]
あっちは何川?利根川?

[浜野]
荒川とか。あっち側からのはもうまずいですよ。だから多摩川の水飲んでる人は、ありがたいと思わないとね。山ありきですよね。

人にね、私はそういう意味で、最近メザニンっていう、メザニンパーソンという言い方をしてるんですけど、メザニンて、中二階ね。浜野さんってちょっと偉いし、年寄りだし、しんどいなと。でも30代40代のあなた方のような世代の割と私と仲良くしてくれる人が、最近増えてきたんですよ。ここでトークショーやったり、映画の鑑賞会やるうちに、だんだん増えてきたんです。この間も、これを私の聞きに来られて、NHKのイベントマネジメントなんかやってる人が、今日もこの後来られたりするんだけど、何かお手伝いすることありますかって、言ってくるようになったから、発信しておくことはやっぱりいいことだなと。

[江良]
そうですね。

[浜野]
だんだん、私だと、なんか浜野さんって偉い人だと思ってる人が多いので

[江良]
それはそうですよ。僕も本全冊持ってるから、サインをもらってきてくれとか。

[浜野]
中間階にいる人は、あなた方の世代が、もう少し僕にもっと親しく付き合ってくれたらいいわけです。私もそういう意味で、中間階に降りてくるようにしないと、あまりにも釣りとか、仙人みたいになってちゃう。だからお前たちどうせ分からないんだみたいな顔をしないようにしないといけないなと思い出したのが、去年のこれを解体して新しいことを始めた時に気づいて、こういうANKOW MUSEUMや、ANKOW STUDIOを作った理由。だから僕の映画は、映画館行って見るのは大変だけど、ここでお茶飲みながら見れたらいいというのをいっぱい見てくれるようになったし、すぐそこにね、青学のちょっとしたホールがあったんですよ。スタジオという。150人くらい見れたんですけどそこ使っちゃいけなくなったんです。コロナ以降、そういう集会ができなくなったんです。

[井田]
残念ですね。

[浜野]
だから、また結構なんとかしてくれるんじゃないかと思うんだけど。

[江良]
本当に浜野さんのそういうことを、ずっと伝える、コンセプト考えて、アイデア考えて、あとはやっぱり伝えて形にして伝えていくということですけど、難しいですよね。

[浜野]
でもね、意外と簡単なのはこの、青学で始めた、立命館大学の客員と青学の客員やってたとき始めた、街歩き教室。

[江良]
街歩き教室?

[浜野]
街一緒に歩こうやと。そうするとみんなもう。

[江良]
それむちゃくちゃすごいコンテンツですね。失礼なぐらい。

[浜野]
それをやから、これから始める中に今、たいぞう君という、僕のボディを直してやろうという若者が来て、ちょっと足悪いからね、それからここが、だけど今は何も言わないですよ。彼は僕と一緒に逃げるに横から見ながら歩いてきて、もし転んだら支えるだけなんですけど、彼はそれで僕のこの集会を演出したり、街歩き教室、何日かな?11日かな?3月11日かなんかにやるんですよ。でここで集まって、ここから始まって、From 1stはなぜ作ってどうしたか。あれを作った頃、あそこに一軒のビルもファッションもなかったんですよ。ファッションブティックなんか一軒もなかったんですよ。で、ここでお金出す人いなかったんです。だけどバブルの頃に、日本のバブルの引き金を引いたのがこのFrom 1stだと、言われるの、書かれたんですよ。Wall Street Journalかなんかに。あのビルができてからズラーっとできていったのがね。

[江良]
それはでも、ズラーっとできていくのが、見えてたんですか、それこそ。

[浜野]
いや私は見えてた、分かってたから、裏にも道開いてたから、From 1stって入り口があって、裏口があって、その裏口へ道を開いておいたから、今やもう一流ブティックになっている。

[江良]
なっていますよね。それはでもどういうことが積み重なって、浜野さんだけがっていうのか分からないですけど、その時代に、それだと言って、さらに実行までする実行力は置いといたとしても、そのビジョンみたいなのはどこから来たんですか?なんかやっぱり街を歩いてらっしゃて?

[浜野]
やっぱり京都で、町屋みたいなところから生まれて育ったからじゃないですか。向こう三件、両隣があってね、街があるんだという。

[江良]
なるほど。

[浜野]
やっぱりマンションで育った人はなかなか分からんかもしれない。裏通りとかちょっと行ったらこんなところがあって、やすよちゃん、錦市場行って豆腐買ってきてとか、なんかそういうのがあったからできあがった一つの、いわばDNAみたいなものがあるんですね。

[江良]
ちなみにその街歩きツアーは一般から人を募集してるんですか?



[浜野]
それはするんですよ、それはもう私の。

[江良]
それはあれですか、浜野さんのいうメザニン、中二階的なメンバー集めてなのか、それとも若い子たちも

[浜野]
それはもう若い人誰でもいいですよ。

[江良]
それは本当に貴重な体験になりますね。

[浜野]
それはね立命館の子どもたちも、僕と一緒にいかに新宿、西新宿の、西新宿は失敗だったという講演をあそこでやったんですけど

[江良]
そうなんですか。

[浜野]
みんなよく意味が分かった。

[江良]
いわばビルのこのこれが

[浜野]
あれの商業部会、新宿新都心開発協議会商業部会というのの委員だったんです。隣に森ビルの森さんもいたし、座ってたし、三井不動産のその当時の会長もいたし、私はその中で、このまま立体交差を貫いたら、商業的損失はおそらく2000億円くらいになるよと。年間2000億円ほど損失するという。確か何で2000億円って数字出したか忘れたけど

[江良]
何でですか、理論としては。

[浜野]
立体交差にしたばかりに、一階は使えなくなったんです。

[江良]
なるほどね。

[浜野]
一階が商業ベースとして使えなくなった。

[江良]
全部あっちですもんね。

[浜野]
つまらないでしょ。ニューヨークなんかね、あんな摩天楼でも一階全部フラットでつながってるじゃないですか。だから街見ながら、店見ながらニューヨーク歩けるじゃないですか。

[江良]
そうですね。

[浜野]
あそこ歩けないでしょ。ただ前へ行けと。あんなつまらない街はないですよね。都市計画としては大失敗だと思うよ。それと同じことをまた渋谷でもやろうとしてるわけ。また。

[江良]
なるほど。

[浜野]
だから渋谷の超高層化はおそらく、僕が、一番、昨日か書いた、フェイスブックで、これ調子に乗ってたら上は全部外資に乗ってられるだけで、ミサイルも何もなくても、日本乗っ取るのは簡単だと。いうことを書いて、みんなものすごい反響があったんですけど。だから鉄砲も何もいらないですよ。日本人騙すのはほんまに。だから、今行われている渋谷や新宿や銀座で行っていることは、ほとんど外資が盆踊りしているようなもので、将来の日本には何の役も立たないんじゃないかなと思いますよね。

[江良]
ちょっと暗澹となる気持ちに、なってきちゃいましたけど

[浜野]
だから僕と一緒に戦えるかという。

[江良]
そういうことですよね。でもやっぱり戦いという言葉はね

[浜野]
それこそスティーブ ジョブスがね、なんでお前浜野と遊ばないんだって、ダグに言われてね、安閑としたらしいですよ。いままで遊んだことないな、俺と思ったらしいですよ。僕彼と2回やってるんですよ。昔ね彼がもっと若い頃。一つはねフランク ゲイリーという建築家のところで説明会やるから、コンピューターのことについて勉強会やろうとか言って。またコンピューターがあんまり今みたいに、あのコンピューターができる前はツルツルの。コンピューターがいかに世の中を変えるかってことを彼は説くんだけど、唾飛ばして。株を買えって言ったんだけど。俺はコンピューターわかんないから、明日釣り行かなきゃならないから、もうこれで、とか言う感じだったから。あと1回あったのは、どっかでもう1回、Appleの株を今のうちに買っといた方がいいぞと言われて。お会いしたことしかないんですけど。まあやっと会えるかなと思った。なんで彼が僕に興味を持ったかというと、あの本、「新野生学」持ってきて。

[江良]
「新野生学」これが。

[浜野]
このね、ダグラス トンプキンスが本屋の店頭で、この一行の英語に感動したんだって。"Life's Entertainment, Survival is a Game”ってね。これ見た時に俺の人生が変わったって言うんですよね。ここにも書いてるんですけどね。で彼はそれ以来僕のことをグルだグルだ、って言うんですよ。それで、それをまたAxisビルに連れて行ってね

[江良]
Apple Storeのね第一号店のデザインは

[浜野]
ダグが八木とアクセスしたの。その時に階段を、僕が、非常階段って普通、影に隠すでしょ。それを僕が一番真ん中に階段作って、日本の最高峰の建築家かインテリアデザイナーにデザインさせて、階段を。って言って倉俣史朗にデザインさせたのがあの階段なんです。階段を彫刻みたいに使ったわけですよね。それもすごい感動したらしいんです。そういう風に、あの時代はあれなんでそういうことできたかっていうと、オーナーがブリジストンのファミリー家の石橋寬っていう、社長だった、AXISの担当者だった。だから彼は、彼の一存でブリジストンを説得できたわけです。

[江良]
浜野さんって、これが自分の中で、成功した、最も成功したプロジェクトの一つだなみたいなものって、どういうものを今から振り返ると思われます?

[浜野]
だから、やっぱりあるプロセスにおいてはですね、やっぱり東急ハンズっていうのは、一般の人が浜野さんを知ってる、ああ東急ハンズを作った人ですかというような印象があるんですよね。それからもうちょっと古い人はやっぱりMUGENでしょうね。MUGENは20年続いたディスコで、世界に無いそうです。だから成功した。今またね、MUGENをもう一度というね運動が起きているんですよ。MUGENって大成功したと思います。観光バスまで停まったからね。

[江良]
そういう意味ではやはり、当然浜野さんの価値観もアイデアも含めて、世の中にどれだけちゃんと伝えられたかみたいなところは一つ基準になるんですかね。

[浜野]
やっぱり一般の人が僕を知ったのがMUGENですよね。それと「質素革命」の本がよく売れたことと、質素革命の服をね、藍のムラ染めのムラムラに染めた手染めをした服を、私の関係者たちが着て、朝から、歩行者天国ができたばっかりの新宿をね、掃除してたわけですよ。それでこれからこんなイベントやりますよと言って、新宿の駅の、新宿の伊勢丹の横にちょっとした空き地があって、今はもう一体化されてあって、その空き地に木組で、質素革命と、木組の屋台を組んでそこに質素革命と入って、上にバンドを置いて、ビートルスのMother
から始まる演奏をしてですね、で僕が演説したわけですよ。歩行者天国に向けて。その時、全部止まって聞いたんですよ。



[江良]
その写真が出てましたね。コンセプトインデックスでね。

[浜野]
あれは成功をした。その時に伊勢丹がまだ懐深くて、一番正面入り口の右側の一番いい売り場をくれたんですよ。SOMETHING ELSEというブランドを僕が、それ同時に立ち上げたわけです。単なる質素革命じゃないんですよ。ちゃんとブランドを立ち上げてたんだ。そのSOMETHING ELSEが大ヒットした。だから寝具から家庭用品、子供服全部、SOMETHING ELSEでできましたからね。

[江良]
すごいですよね。

[浜野]
で私はそれをブランド売って。さらに自分は本家のSOMETHING ELSEをもっと大きくするかどうかという時に、やっぱりそれに束縛されたくない。ブランドをEDWINに売って、また自分は辞めちゃうんですね。だから、その繰り返しですから。本当いうと、ずるいのかもしれないし、もっと頑張れば大金持ちになったかもしれないし。近いと同時に、事業家としてはやっぱり、ユニクロの柳井さんとも何度も会ってましたけど、やっぱり向こうも一緒にやる相手じゃないなと思ったんでしょうし、私も一緒にやる相手じゃないと。彼は今は、株が倍々ゲームで大きくなっていって、世界の大長者になったわけですけど、いろんな人と、だから出会ったり、一緒になりそうになって、ロスチャイルドまで巻き込まれようとしたわけですから。いつも僕は逃げてきたというのか、違うと思ったのか、やっぱりそこに根底にあるのは、やっぱり親父の思想だと思う。

[江良]
やっぱりお父様も含めた、資本主義じゃない思想みたいなものを、極端なこと言うと柳井さんのような、僕も一回だけお会いしたことがありますけど、ある意味本当に企業を大きくしていく。資本主義のシステムの中でベストを尽くされるみたいな。そことは折り合わないんですかね。

[浜野]
違うんですよ、折り合わないね。だから僕はどちらかというと修験道の行者なんですね。基本的に体質的にね。どちらかというと政治家じゃなくて革命家なんですよね。

[江良]
どちらかというと、こう体制というのかな、資本主義体制というのかな、中に入って、こことコラボしてやっていくじゃなくて

[浜野]
そういうのはねもちろん、立ち上げるまではやりますけどね。それからあとは良きに計らえで、次のことが面白くてね。

[江良]
やっぱりこう、オルタナティブな、何かこう、浜野さんなりに感じられることを、どんどんやっていくしかないっていうかね。

[浜野]
最後までこれなんですよね。だから今ね、これの簡単な映画を作ったんですよ。もうちょっとでできますけど。これ今使えなかったんだけど、何かの時に、Crystal Kingのね、果てしなく夢を追いかけて、ってあるじゃないですか。あぁ果てしなく夢を追いかけてっていう。あれをシーンの変わるたびに流れる。笑 最後、僕の後ろ姿で終わるという。

[江良]
面白いですね。

[浜野]
夢を追いかける人が、夢追い人だ。

[江良]
そういうドリーム。

[浜野]
でもね時々、もう経済的にもやばくなった。横浜で失敗してあれができなくなって。市長に裏切られてとかいろいろあった時はね、本当にどうしようかなと思いましたね。そういうことはいく度もあるんだけど、でもまぁ前のかみさんに助けられて、また新しいガールフレンドに助けられて。女性の力も大きいよねそういう時のね。

[江良]
ちょっとコメントしづらいな。どうですか井田さん。

[井田]
そうですね私たち女性スタッフもね、役に立ちました。

[浜野]
そうそう私はあの頃ね、前の会社辞めた後にね、アンコーズエンジェルスというのの一人なんですけどね、何かいて非常に助けられましたよ。

[江良]
でも、なかなかどうなんですかね、夢を持って追いかけるのも難しい時代になったのか、それは変わらないんですかね昔と。追いかける人は追いかけてるのかな。

[浜野]
昔から難しいです。夢だけでは食えないなと。でもなんとか食ってきて、なんとかや80歳を超えて、なんとかやってきたんじゃないかみたいな。おそらく今度琵琶湖に家建てて、できた時にここまで来たかと思うかもしれませんね。
一人でカヌー漕ぎながら。だからその満足感というのはやっぱり、人によってはね、やっぱりこう、前澤くんみたいにすごい金もらって、配るよみたいな人も、その満足感、宇宙行って満足するのもいるし、いろいろいると思うんですよ。僕はやっぱり、これの、「自由無限」の映画のラストシーンは、渋谷川をもう一回、キャットストリートは地下に入っちゃってるんだけど、それから宮下パークで商店街の下を流れ、渋谷駅を出たとこから、外へ出るようにというのをずっと僕は渋谷青山景観整備機構でやってきた構想通りになってるんですよね。で最後ラストシーンに僕があそこに立って、ああ川が残ってよかったなっていうので終わるんですよ。だから巨大なビルを建ってきたけど、川は残せたねっていう。他の街にはないからね。そういうようなぐらいしかないんだけど。本当に言うとまぁ、あれを元にした映画も、渋谷の男、っていうのをシナリオまでできてるんだけど、なかなか金がね。やっぱり東急が、電鉄が東急になったでしょ。あの会長が金出してやれよという話だったけど。みんな周りが固められて、この映画作るべきじゃ、ないないない、みたいな団結されて。

[江良]
それはやっぱりどうしても東急批判、東急さんの批判が入っちゃうから?

[浜野]
ちゃんとメザニンを作っておかなかったから。

[江良]
なるほど。



[浜野]
いやいやこのぐらい作らせてもいいじゃないですか、っていうのを作っておかないからできなかった。でもまだ俺は作るけど、もっと前衛的な映画で、今チームはどんどん固めてるところではある。

[江良]
お金かかりますもんね。映画ってお金かかりますもんね。

[浜野]
いやそんなことないですよ。みんなそう思うからいけない。僕の作った「さかなかみ」なんかね、あれおそらく3000万円くらいでできてる。

[江良]
まあまあまあですよね。まあまあまあ。

[浜野]
まあまあでしょ。全部だって1500万円くらいが実質かもしれないよ。でGACKTを使ったカーラヌカンは、あれGACKTでもでもね、GACKTくらいの有名人を使ってもね、映画だけってことで契約すると、結構な額でやってくれて。あれね、裏話があって、吉本と俺が組むことになってたからね、まだ助かったらしいんですよ。吉本がめちゃくちゃに仕上がったと思ったけど。この間反省しました。僕がGACKTのところ一人で頼みに行ったでしょ。その時にね、GACKTはね、お願いしますよ、と言ったんですよ。彼は14年間映画出てなかった。僕が映画出てくれ出てくれてやって、お願いしますよということは、はいわかりましたと言ったと思ったら、今沖縄人が私の助手についてるんですが、そろそろ来るかもしれないけど、彼女が、それはね、それはもういい加減にしてくださいという意味ですよって言う。

[井田]
真逆だったんですね。

[浜野]
それで映画なんて、そんなんねって言うんだろうねっていうね。いうのを僕はすぐ大崎会長に電話してね、いや引き受けましたよ、やるって言ってますよって。面白くなってきちゃって、会長がまた乗っちゃったから、真ん中にいる人たちは大変なんで、予算以内で納めて何とかしてくれたんですけど。GACKTもねやってるうち面白くなってきてね、いろんなマスコミに、彼が何で濱野さんですか、どんな人なんですかっていうのに対して、いやあんな天才はいないね、そのもんね俺が天才って言ってくれてると思ったら、あんな変人はいないっていう。

[江良]
面白い

[浜野]
最後の最後のラストショットを作るときに、この家の上で、彼がね東京の恋人と別れるシーンをね、彼がね東京の恋人と別れるシーンが、ここの上で撮ってたんですよ。でガチャンと、鍵をガチャンとこう、ガールフレンドがガチャンと置いて去っていくところをね。次を一人で眺めてるシーンをこうやって撮ってたんですね。その時もうね、全ての撮影は最後のラストショットという時ですよ。僕の隣に、あのそのシーンの最後の、そのショット撮る時に、私はここにいて、隣でGACKT君が並んで見てたわけですよ。よーいスタートって僕が言って、それから後ね、OKとも何とも、僕は言わなかったから、で、僕は寝てたらしいんですよ。

[江良]
ダメじゃないですか。監督。前代未聞ですよ。

[浜野]
それで、OKだし、どうしよう。僕はグワーと倒れちゃったから、こんなの初めてだよって。

[江良]
それはそれは、聞いたことは少なくともないですね。

[井田]
まさに自由無限ですね。自由無限。

[浜野]
疲れ切ったんですね僕は。全部放出しちゃって。だからもう、そのことをまたいろんな人に言うんだよ、GACKT君が。
あんな天才いないよって。まあ黒澤明もいろいろ言われてるようですから、いいじゃないですかって。

[江良]
結構いろいろお話をいただいてこれましたけど

[浜野]
なんか抜けてることあったら。

[江良]
でもなんかね、都市の皆さんも、まずあれですよ。この番組というかPodcastなんですけど、やっぱり聞いてる人たちがね普段何かこう、できるアクションというか、資本主義に革命を起こすのはちょっとできないけども、やっぱりできることを、こういうことから始めてみたらどうだとかですね、そういうちょっとアドバイスみたいのをいただいてるんですけど、やっぱり浜野さんの場合はこう、山に入り釣りに行けとか、そういうまずそういうことからですかね、まず。

[浜野]
いやそれとは、普段の仕事でも仲間集めて、お金集めて、やらなきゃならないんでね、やるときは。それは資本主義のスタイルの上で僕もやってるわけですから、そういう意味でやっぱり人が金出したくなるような企画にしなきゃいけないよ。

[江良]
そうですね。

[浜野]
やっぱり、しっかりした、今あの自分でこうパソコンなんかで書いてると、自分で書かない。書かないというか線で書いたり面で見たり、なんかこう、触覚的なことで想像していくのが、だんだん薄れてるように思うのです。例えば一頃、僕らトヨタの研究開発でずいぶん仕事をしたことがあって、その頃やっぱり、いつも夜中まで、畳の大きな部屋借りていただいてね、座り込んで、こういKJのカードを、KJ分類の、名刺ぐらいの大きさに色々書き込んで、バーッと並べ替えたりして。その結果僕は生み出したのは、これはやっぱりトヨタは、これからまだねアジアに進出し始めたばっかりの頃ですよ。これはやっぱりバリ島をモデルにして、トヨタの世界戦略を考えましょうという結論になったんですよ。

[江良]
なるほどすごい結論ですね。

[浜野]
それで僕はバリ島に行かしてもらった。その時に、自分の決定的な、浜野アンコウが世界で割と有名になる、決定的なコンセプトを捕まえたというか、ビジョンをクエストしたというか、それはやっぱり、巨大な円借款でできた大きなホテルが一軒建ってたんですね。バリ島に既にね。こんなのが並んじゃったら大変だと思ったんですよ。それでヤシの木より低く、建物を抑えるエリアにしようということを、違うプロジェクトに売り込んで、トヨタで何やってたかというと、一番僕が思いついたのは、そのいわゆるあのホテル、あの背の高いホテルね、インターコンチ(Intercontinental)のホテルだったんですけど、なんであの水牛しかいないこの島で、こんなにうまいステーキが食えるのかと。この値段で。そこで世界のネットワークを持っている企業でないと、一軒だけホテル出してもこんな味は出せないねと。そういうことはインターコンチ(Intercontinental)のホテル、当時はPan Americaが有力な飛行機会社で、Pan Americaとインターコンチ(Intercontinental)の資本提携があったからこのビーフステーキが出せるということに思い至るわけですよね。それでやっぱり、ネットワークシステムズオペレーションというコンセプトが生まれたわけですよ。テーマとしては、グローバル、マルチファンクショナル。グローバルネットワークシステムズオペレーションという、トヨタがこれからやる仕事はこれだと。そういうタイトルのものすごい報告書を作ったわけですよ。

[江良]
インターコンチの牛肉から。

[浜野]
そんな厚いその時の報告書が今なくて、その時にそれを元にして、パシフィックコンサルタントという土木の会社が、バリ島の、世銀のリゾートコンペがあると。世界リゾートを作るコンペがあるから、参加するか?でもお前のようなハレンチな考え方だとどうかなと思うけども、やってみろという話になって、トヨタのお金で研究したの、これ使っていいですか?これは面白いということになって、トヨタで研究させていただいた、架空の研究がですね、ガーッとそのまま活きたんですよ。

[江良]
なるほど

[浜野]
それでそのヌサドアというビーチが、かつてアゴン山の火山でダメになったエリアのビーチをどう再開発するかと。その時にワールドクラスのリゾートがいいというテーマがあったんですよ。僕はそこをヤシの木より低く建物を抑えて、母系農耕社会が、素晴らしい文化がバリにあるから、母系農耕社会を残してやるんだけども、木より低く抑えるということが、やっぱり分かりやすいコンセプトなんじゃないかと。それで今バリ島では観光バス乗っても、私たちの誇りは、木より低く建物が抑えられていることですと言うんですよ。誰が考えたかってみんな忘れちゃってるわけですよ。もちろんそのことは言わないから。私報告書の中にはTEAM HAMANOの名前で、コンセプト最初の数枚は僕が書いたというのは分かっていることなんで、ここから始まったということは証明できるんですけど。それを今度、元になったのは何かというと、さっきのご紹介にあった海洋博の周辺調査員で、ヴィセという村に長く滞在させてもらったんです。その頃旅館もホテルもなかったから、おばあさんが一人ね、ここで寝ていけばいいよと。言われて。何でおばあさんがそれを僕に言ったかというと、道をきれいに、はぎきよめてね、石を一個置いておくという。そこを僕がね、避けて、ちゃんとこう、掃き清めたところを、踏まずに歩いたことをおばあさん見ててね、あなたそこを避けて通ったねって。珍しいよってあなたのような人は。あそこ石が置いてあったでね、あの石のことも分かったのって言うから、あの石はひんぷんというんだと。ひんぷんというのはその時僕はひんぷんというのが、これは沖縄のコンセプトだなと思ったの。仕切りがないけど心で仕切ってる。その石が置いてあることでそれが分かる人かどうかというのは重要だと。おばあさんは分かったわけでしょ。僕も分かったわけでしょ。僕は京都人やから分かったのかもしれないし。その時にあなたはここ泊まっていっていいよと言った。それで僕は通産省のお金で、あの辺で長く遊んで帰ったというか、提案したのは、もう何しろここはこういうエリアにしましょうと。だから海洋博ができた時に、堺屋太一が実はね、私の対抗馬にいたわけです。

[江良]
なんかいそうですね。

[浜野]
あいつの名前は池口小太郎といったんですよ。

[江良]
あペンネームですよね。

[浜野]
池口、通産省ですよ。池口、呼ばれた、外様の委員ですよね。向こうは直系の役人でガチンコした。彼は高層ホテル街にしようと。

[江良]
まあそうでしょうね。

[浜野]
私はそのフクギの並木を残して、こういう街を残すべきだという。そっちの方はまぁ採択されたわけ。その時に、もう、いつも喧嘩してたわけ。それからあと、だから私は話はそれたけど、一切仕事を私に回さなかったから。偉くなっても。

[江良]
ちょっと過去を思い出したんですね。

[浜野]
安藤のところへ直接スルーしたんです。全部。それで私は、そのおかげで、ヌサドゥアのコンペにその村の良さを、木より低い絵を出してですね、で、そうそうそう、 “Bali must not become another Hawaii”のコンセプトを思いついたわけ。それがあって、だからトヨタには、マルチファンクションのグローバルネットワークシステムの一つの大きなテーマを与えて、今はそれは完全にトヨタは出来上がっているじゃないですか。まだアジア行ったらね、その頃アジアの担当者、タイなんかの担当者会って回ってたんだけど、お金がね、この雨が、雨季の雨が止まない限りお金は入らないからねと。なかなか月賦で払う人がお金払わないと言うんですよ。アジアは。それをどうするかが問題だとか、そんなことばっかり出てくるんですよね。だけどここでトヨタが車を売っていくのは大変だなと思いながらもね、いっぱい勉強させてもらいましたよ。

[江良]
それはあれですか、今の子がもう少し現場に出てというか、それを体感しながら、どうやってみんながこうねお金出したりとか

[浜野]
だからやっぱり現場に歩くことですよね。

[江良]
歩いて、気づいて、出会いがあって

[浜野]
僕もそこは、割と行ってみたから分かったことですよ。だから、それと、タイやらインドネシアやら、昔行ってたから分かることですよ。今はもっと分かりやすくなっていると思うんですよね。飛行機でどこでも飛んで行けるしね。その時に吉良竜夫さんからの話がこうなったんだけど、吉良竜夫さんは、どうしたらこの木より低くさせるのに説得力のあるレポートを書けるかというのを考えている時に、私みたいなラッキーな人はいないと思うくらい、飛行機で隣に座っていた人が吉良さんだったんですよ。飛行機の上からジャングルを見ておられるんでね、失礼ですけど、どういうお仕事をされているんですかと聞いたら、いやこれやってるんですよって。これってジャングルの生態学かなんかですかといったら、よく分かったねと言うから、実はこういうもんですと、お互いに名刺交換させていただいて、東京行ったらすぐ遊びに、いや大阪行ったらすぐ、日本帰ったらすぐ行きますわって言ったら、ちょうどその時トヨタのレポートが終わった後で、その世銀のコンペが来てて、これ使わせてもらいたいんですよ。先生がなんか木を切るなという何か、ここ書いてあるんですよ、この下に書いてあった、あれこれ隠したの、この下に何か書いてたんですけど、この絵を書いてたんですよ。ですからこれが、いやお金ないんですけど、先生の一言アイデアなんか書いてもらえませんかいうて。一回見てみたいなと、僕のポケットマネーでよかったら夫婦で遊びに行ってくれますか。それは大丈夫ですけど、お金もそんなもらわなくても、バリは行ってみたいと思ってたから。じゃあ交通費だけでも出してくださいと行って、僕に電話がかかってきてね、すごいこと見つけたよって。何ですかと言ったら、いやこの土地の特徴は必要以上に木を切ると、地盤が軟弱化する恐れがありますよ、ここは。それですねと言って。それ書いてくださいと。それで、吉良竜夫さんがサポートする、植生研究ができあがった。

[江良]
本当に単なる偶然から始まったといえば

[浜野]
そうそう、そこをガッとも捕まえるのもね、本当にラッキーなんですよね。

[江良]
でもね、なんてコメントすればいいんですか、どうなんですか井田さん、動物的でもね



[井田]
動物的嗅覚

[江良]
動いて、なんかこう面白いものがあって、それをこう貪欲に捕まえていくっていう

[浜野]
私の場合は、それがついてたとこもある。ちょっとでも、ついてた、この人はと思ったら捕まえてしまう。そういう自分の中の子供時代からの、そういう割と、面白い人いたらすぐ捕まえに行く、のがあったと思うんですよね。だからまあ人間関係でもね、本当に好きな人が出てくると、すぐ追っかけていって今までの人を大切にしないとこがあるといけないから、今のところ意識はそれは気をつけているんですけど、やっぱりそういうところがあるので、まあなんとかそういうことで、無法松の一生じゃないけど、まぁここまで来れたことは幸せだなとこの本にも書いてますけど、ようここまで生きてきたなと自分で思いますね。

[江良]
それは本当にあれですね、自分で何か変な妥協はせずに、自分の興味とか面白いというところに、自然に従って来れたという、そういうような達成感というか、充実感というようなことなんですかね。じゃあ今日は、本当にありがとうございましたですけど、今日一緒にいてくれる、例えば、何か質問あったりしますか?じゃあ中馬君。

[中馬]
今日色々お話を聞かせていただいて、学びしかないんですけど、イボンさんとはどこでお知り合いになったんですか?

[浜野]
イボンさんはさっきちょっと言ったかもしれないけど、ダグラス トンプキンスが、私が八木保を紹介したじゃん。八木が出かける時に、お前帰ってくんなよと。もうダグのためにやるんだったら、一生もうダグの仕事やる。そのくらいのつもりでいけよと。そしたら色々素晴らしいコンビネーションが出来上がるわけです。で、そのことをダグはすごい喜んで、一回ちょっと遊びに来いと。一応八木のやったところとか、ダグのオフィスとかも全部見せてもらって、その後今から釣り行こうって言うんですよ、彼は急に。釣り行こうって、お前釣りやれるの?ちょっとはやれるよって言って。ちょっと面白いやついるから行こうって。行こうって言って、釣り道具持ってきたんだろうって。いや後でちょっとどっか行こうかなと思ってた。行こうって言って、車で持ってこいって言って。簡単に言うですよ何してるのあの人。そしたらダグが、車乗れって言って、エアポート行くわけですよね。飛行機でどっか行くのか?って言ったら、いや大丈夫だよって。自分の飛行機がとめてあって、セスナなんですけど、ここへ乗れって言われて。本当にすごい人でね。ダグっていうのは。で、ちょっと面白い男と一緒に釣りやろうって言って、まずヨセミテの谷をこう、俺と今から会う男とは、ここの谷をこのようにして、このエル キャピタンをこう登って、ハーフドームをこう登って、こんな飛行機運転本当はできないんだけど、こんなことやったって言うなよなとか言いながら、うわーって運転して、それでさらにその次のロッキー山脈に辿り着いて、グランド ティートンが見えてきた裏から、その時の写真がどっかに出してるけど、それを見た時に、なんてすごい山なんだろうと思って、俺はここに住むかもしれないなと思うぐらい、また谷間が見えてきて、それでエアポート着いたら、パタゴニアのイボンが待ってたわけですよ。で、今からこいつと釣り行くやって。で彼はその車をパークして、今度はイボンの車に乗せてもらって、イボンの別荘に行ったわけ。その時そこがまた素晴らしいところで、この隣に僕は別荘を買いたいと思ったんだけど、その次の年に家族でアメリカ横断旅行する計画があってね、その結果として、結局彼の隣に別荘を建てて30年もお互いに暮らすことになるわけですよ。きっかけになったのはダグなんです。でイボンとはその時一緒に釣りをやったのがきっかけです。

[中馬]
そこでおにぎりを食べて渋谷の話になるんですか?そのもうちょっと後になるんですか?

[浜野]
渋谷の話はもうずっと後ですね。

[中馬]
ずっと後になるんですね。

[浜野]
だから要するにあちこち釣り、夏の生活を彼の方も会社始めたばっかりで、あんまりそんな大きな会社じゃないんで俺とよく遊べた。彼はよく考える人で、ひと夏の過ごし方がね、半端じゃないんですよ。だいたい6月の半ば頃に、その家に行くと、9月半ば頃まではずっといるんですよそこに。で釣り行ったり、考えたり、山登ったり。それだからこういう浜野ネイチャースクールの、あそこ二人目がイボンで向こうの奥さんがいるんですけど、でこれ彼の庭で、その隣の庭が私、隣が私の家が建つんですが、ほぼこんなところで浜野ネイチャースクールを始めるわけですよ。それまで僕ミクロネシア協会(社団法人日本ミクロネシア協会、現、一般社団法人太平洋協会)をやってて、ベトナムサイパンで毎年100人連れて、ツアーやってたから、ここに切り替えた。それが1988年に家ができるから、ジャクソンの。あの家ですよね。前はスリーピング インディアンがあって、前はグランド ティトンが。後ろと前にこの山がそびえてる。だからまさにイボンの家も同じ状況です。で、だからそんな感じで初の出会いはダグですね。

[中馬]
すみませんありがとうございます。どういう経緯だったのかってすごく聞きたくて。

[江良]
一緒に釣りに行く夜になってから、ご家族でイボンさんの別荘で1ヶ月くらい滞在されてるみたいな。そのこう一緒に釣りしに行ったからって、そんなことならないだろうとかちょっと思ったりしますよね。

[浜野]
その頃はもう本当に彼の服は全然まだできてなかった。今はだんだんパタゴニアもね、お嬢さんがマーチャンダイジングやるようになって、クレアって。その頃はうちの新平もクレアも小さい頃で、その雑草をクレアの背丈で2人で遊んでたような時代ですよね。クレアさんがいると思いますけど、クレアがそこにいますね金髪の長女。クレアでその左の黄色い帽子を被ったのがフレッチャー ですね。

[井田]
すごい余談ですけど、浜野さんと一番最初成城の街で会ったじゃないですか。その次って浜野さんのファミリー全員と一緒にお蕎麦を食べたんですよね。なんか浜野さんというか家族がオープンというか、なんか日本って仕事と家庭と全部別々だけど、そういうのが常に一緒でしたよね。

[浜野]
そうですね。

[井田]
なので当時から。

[浜野]
だからそれが私の考えやし、イボンの影響も大きいですよ。イボンやダグの生活の仕方の影響は大きいですよ。そういう僕が、どうしてね、だんだん家族がどうやって変になっていったかというか、それはイデオロギーでしょうね。イデオロギーと、なんか変な宗教が絡むと、家族を潰れるし、イデオロギーが問題だ。

美術手帳というのの特集で、昔1968年僕はMUGENを作るんだけど、MUGENを作る前後の時に出た美術手帳、美術手帳が大きなきっかけになってMUGENができるのかどうか分からないけど、美術手帳で共振を超えてという、本当にイデオロギーと宗教を超えていかないと、アートは面白くないという長いことを書いて、一発の銃声がアメリカを変えたというね。誰かが撃たれるでしょう。

[江良]
ケネディですか

[浜野]
その辺で、そのケネディじゃなくてもう一つのことだったかもしれないけど、サイケのポスターが流行った時に、ポスターアートという大特集を僕はさせてもらったんだけど、割と美術手帳なんかによく書かせてもらう時代があったんですよ。それは大きかったかもしれないね。今度、MUGENができるまでには、エンバイロメンタルアートというものに対する、僕はエンバイロメンタルアートと、それから横尾忠則との出会いとか、一柳慧との出会いというのも大きいと思う。その頃stagという雑誌の編集長をやった。あの頃にすごい沢山の人と出会えたんですよ。

[江良]
だからやっぱりMUGENに人が集まってきたし

[浜野]
だからそれが大きかったよね。一挙に人材が膨らんでいくんですよね。その編集長、だからテレビに出てる時もstag編集長で出てたわけですよ。だからザ フォーク クルセダーズとか、錚々たるミュージシャンなんかも一緒にやれたしね。

[江良]
だから多分、浜野さんの作られる場に行くと、何か新しい情報というか、最先端のものがあるっていうような、そういう仕組みというか、コミュニティーの核にいらっしゃったということですね。

[浜野]
だからマイケル グレイブスでもね、AXISのAXIS誌の4号編集長を僕はやった。今でも雑誌続いてるんだけど、あれを社員も、ブリヂストンも全部反対したんですよ。雑誌出すことは。僕は絶対やれと。これがなかったら絶対持たない。団結が持たないっていう。それで未だにあってよかったと思うんですが。

[江良]
その価値観みたいなものが、みんなで形にして作ることで、同じ共有体験ができて、

[浜野]
パタゴニアからそうなったけどね。だから結局きっかけがそういう雑誌だったりするんですね。その雑誌やってる上で、プレイボーイの編集長と友達になって、島地さんっていうのは、僕とサインが入っている、その頃の編集長だった。島地さんがまだ開高健がいる時代に、なんで開高健じゃなくて、浜野さんにこれやらせたかというと、釣りの実力が全然違うと。浜野さんやったら面白い本になるやろけど、開高じゃできないというのが分かったから、それを出したわけです。現実開高さんは風がなかったら、フライヤー無理だと言ってるような人ですから。どんな突風でもフライフィッシングは飛ばせなかったら釣りにならないんで。あの程度の力量で、作家やから書けたんだけどね。あのぐらいのことをやる。僕はアマゾン行っても、余談やけど、彼はピラルクを釣らなかった、釣れなかった。僕は17匹も釣っちゃったからね。1日に。こんな簡単に釣れるのかと思った。だからそういう風に釣り界でもね、僕はみんなのけもんにされて、釣ってしまうからね。なんとかしちゃおうアンコウさんと言われてて。

[江良]
釣ってしまうと確かにね



[浜野]
理屈なくに釣ってしまうので困るらしいんですよ

[江良]
妬みですね

[井田]
その妬みは強いですよね

[浜野]
周りの社員も大変だったね

[井田]
どこででも生きていけるタフネスを身につけられました

[江良]
今日は一旦ここまでで。

[浜野]
何に使ってどうするかよくわかんないけど、うまくやってくださいよ。

[江良]
これを皆さんに聞いていただこうと。この会話を。本当に修験道のプロジェクトとかも楽しみなんで。またぜひお話を伺せていただいたり、何より遊びに行かせていただければと思いますので。

[浜野]
別にそこでなくてもここでも遊びに行けますのでね。

[江良]
そうですね、ぜひぜひお願いします。今日は浜野安宏さんにお話をさせていただきました。どうもありがとうございました。

[井田]
ありがとうございました。

[浜野]
こちらこそ。