比叡山、大峰山、高野山という、この一本、山と川をつなぐ線がしっかりしないと、非常に、僕もこれ以上長いことを人にしゃべるのはめんどくさいから、一本筋通そうと。いっぱいあってもいいですよ、僕はこの筋を残したと。何とか、そこに若い者でも3,000円、5,000円の範囲内で泊まれる安宿をですね、ずっと作るのは、僕がやれることは宗教分からないから、あんまりね。だから安宿を提供すると。
清潔で安い宿を。世界中の若者が来て、別に神道と仏教の、日本での極度に完成されたものってこれだよと、というのを見やすい道を作ってあげたい。八十八箇所行くの大変なんですよ、四国回るのは。特に外人は分かりづらい。ここは琵琶湖があってね、白山があってね、大峰山があって、高野山があって、日本海から太平洋へ抜けると。こんなに分かりやすい道ないんですよね。真ん中に琵琶湖があって、それを地図見てるうちに見えてきたから。だからそれを、私が残せるのはこのくらいだと。いや東北やなんかやりたい人がやってくれと。私はこの道を残すと。
だからその、COUNTRY DREAMERの歌、この道は誰の道、というところから始まるわけですよ。あの映画を作ることから、そのことを考えていた。その時は八十八箇所回らせたんですけどね。映画ではね。台湾の道教と、それの指南宮という、ものすごい古いお宮さんにある占い、風蘭という占い、珍しい占いが映画に登場するんですけど、それ、二本手があって、お坊さんがそこでお祈りしていると勝手に字を書くんですよ。ふたりが同じ字を。それが一つの占いの結論になるという。どこまでが本当か分からないけど、ものすごい長いことそれが信仰されてきた。特にあの辺の金山を掘り当てたのが多いんですよね。それで。それで紫南宮もものすごい荘厳なお寺が残っていて、そこを撮影の舞台にしたんですけどね。台湾ではね。台湾でも半分お金を出してもらった映画なんですけど、台湾で上映に行けなかったんですよね。そのコロナで。日本でも割といい雰囲気で上映会進んでいたんだけど、中断せざる負えなかった。これからもう一回やる。ただ歌だけはカラオケに出てますから。
でもやっぱり、修験道、もう少しこう、僕結構、修験道、多分この4人では一番知ってるような気がするんですけど、今ここにメンバー(スタッフ)の中で、もう少しこう修験道の、今例えばね東京にいる人たちに対して、みんなねやっぱり東京ってこのままじゃよくないよねとか、みんな感じてると思うんだけども、多分そのね、いろんな資本の大きさとか、いろんなところがあって個人レベルで何をしていくといいのか、一つはねそういう琵琶湖に引っ越しちゃうとか、ただやっぱり仕事の都合とかでできないとか、人ももちろんいるし、例えばそういう人たちに、修験道でちょっと歩いてみたらどうなのか、でもなんでこう修験道、なんなの修験道みたいな。まあ今ね、その神仏混淆でやってる、やっぱり疑いのない形というようなところは、あったけど、何ですかね今若い人たちに伝えるとすると。
やっぱりそれはね、簡単なことで言うと、やっぱ山と川ですね。山に行くことですね。山に父親は私の父は、山を征服したらいかん。登ったらいかん。山に入るんだと。山に入るっていうことに全ての哲学がこもってると思うんですね。例えばですよ、富士山っていうのは、非常に修験道の一つの道ですわ。ところがね、五号目まで車で登っちゃったらね、もう何もならないんですよ。もうやめた方がいい。要するにご来光を見るために行くんだったら、それは観光ですよね。それは修験道でもなんでもないんですよ。それより五号目までが捨てられたようになってるんですよ。ゴルフ場だらけになって。道というのはもうなんか、川の水を流すための道になってしまっていて。ただ浅間神社、河口湖の浅間神社のそばに、登り口がありますから、五号目まで登られてみて、ぜひ登って、この道をもう一回復活させる運動をしてほしい。そこは緑もあり鳥も鳴き、本当に美しい世界が残ってるのに、みんなそれを忘れて。おまけにね、車で登る上にさらに高山鉄道まで行こうかというね、馬鹿な経済人がいるわけですよ。知り合いではあるんですけど。例えばゴルフ大好きな人はね、僕が富士を壊したのはゴルフ場だって言ったら、ゴルフぐらいいいじゃないですかみたいな。それ以上先に行こうとしない。なんでか。なんで僕がゴルフ場問題してるかということも、なんでダイオキシン使ってまでゴルフ場を作るんですかと、言ったら、まあまあそれはと、本当にごまかすんですよ。それでSDGsとかいって平気で言ってるわけですけど、お前ゴルフやめよ、やったら。っていうのを僕に言われるわけ。釣りぐらいやってみよと思う。釣りやってますよ。ボート買うて、トローリングの買うて、スキッパーに釣らして、釣ったものを料理して食わして、これ遊びですかって。遊びじゃないんですか?って。やっぱり一匹の魚を毛鉤を巻いて、自然を研究して、一匹の魚を釣った喜びと、あの巨大な船で行って釣らせてもらって、どっちが嬉しいですかと言ったら答えられないんですよ、なかなか。それぐらい経済原理主義がはびこってしまったから。もう今度は経済原理主義という信仰から外れられない。だから僕なんかは自然原理主義に近いですよ。そういうてたね。
でもこの今の、Weの時代とかね、あと質素革命とかもそうですけど、まずなんかね、そういう自然と、どれでしたっけWeの時代だったと思うけど、まずなんか、そう自然とね、We感覚とやっぱり自分が魚であり、魚が自分であることとか、自分が木で、木が自分で、自分が鳥で鳥が自分であることっていう、なんかこういうところから、なんかその共生とか、そういう経済原理主義じゃないような、なんかそういう思想がこう、浜野さんの場合、始まってらっしゃいますよね。
ですから、山を見るんじゃなくて、征服するんじゃなくて、山に入るんだという意味はね、もっぺんもっと分かりやすく、英語で言われる、アメリカのビジョンクエストの連中が見つけ出した言葉は、Thinking like mountains、山のように考えなさいと。山から学ぶんじゃなくて、山になれるかと。というThinking like mountainsというのは、山のように考えられるかというのは素晴らしい言葉で、そういう一言ですね。父親の言う山に入れるかというのと、似たコンセプトだと思うんですけど。

[井田]
私は浜野さんの会社に最初入ったときに、一番最初に浜野さんに教えていただいたというか、よく日本って地球に優しいっていうスローガンがいろんな企業さんが使われてたんですけど、それは違いますよ。地球はちっとも優しくないんですって。だから地球に優しいという言葉を使うところから変わっていかないと、っていうことをよくおっしゃってましたね。
[浜野]
地球が優しいんで、地球に優しいって、お前どうして優しくできるんだって。もうその煙草やめやと。ペットボトルもこうやって使ってるけど、もう全部やめてかなあかんね。地球優しくできない。なかなか今の現代人はね。だから地球が優しいんだから、本当に包容力のあって優しいんだから、許されてるうちに、やっぱり我々はもっと変わらないかんね。
[江良]
でも本当、このWeの時代で何年ですかこれは。これで何年のご本ですかこれ。
[浜野]
何年やったかね
[江良]
93年?ってことは、これを20年近く、これ、Weの時代っていうね、そういう意味で言うとこの人がビジネス変えて地球を作る、ある意味もう、SDGsと一緒にしちゃって、ちょっと申し訳ないかもしれないけど、そういう質素革命にしてもね、今みんながある意味、市民権を持ちつつあるけれども、でもさっきから浜野さんおっしゃってるとおり、まだまだ今の人たちも、なんていうかこう、僕ゴルフがね、ゴルフは絶対悪いとは思わないけど、でも確かにダイオキシンとかね、そういったものをやりながら、見ないふりしてこの一瞬だけちょっとね、地球のことちょっとだけ考え、それでもいいのかもしれないですけど、浜野さんがこれ20年以上、もしくはでも、多分ね、多分、MUGENとかやられて、そんな中で質素革命でガッとこう、こっちのオルタナティブに入られるわけじゃないですか、それで何年?71年とか?だからその長い間こうやってこられて、まだなんかこう変わってきたなと思うところと、逆に全然変わんないなと思うところと、なんかこう今なら、今振り返るともっとこういうことが大事だったとか、こういうやっぱり質素革命とか、WEの時代みたいなことで、オルタナティブを提案し続けられた目から見てどういうふうに今感じてらっしゃいます?
[浜野]
あの琵琶湖に行こうと決意するのには、いくつか理由はありますね。自分は子供時代から釣りをやってたってことが大きいし、琵琶湖で釣りをやってて、自転車で琵琶湖に行くのに、大阪山まで越えて行って、釣りをやってまた大阪山まで登って降りて帰ってくる、ものすごい、行みたいなもんですよね。子供時代から繰り返し繰り返しやってて。琵琶湖をいつもこう言ってたんですよ、京都の人間が滋賀県の人を軽蔑的に見るところがある。だけど滋賀県の人が琵琶湖を守ってるから、お前らおいしい水飲めるんじゃないかと。もうすでに臭い水飲んでるだろと。あの頃飲んでたんですよ、現実に臭かった京都の水は。それは琵琶湖の水が腐ってたからですよ。それがみんなが努力をするようになって、一応琵琶湖の水もきれいになってきた。しかし疎水見てもらったら分かるけど、昔の私、父親と疎水でも釣りやってたわけですよ。疎水は底が見えたんですよ。今は見えないよね。そこに落ちてたガラスのかけらまで見えたんですよ。京都の疎水は、岡崎行ったら疎水が見えますから。見たら分かりますけど。やっぱり琵琶湖の水を疎水で引いて、インクラインでもくれるように、本当に人も川も生き生きできた。その美しい琵琶湖をもっぺん取り戻そうというので、いろんな人が努力した。私の生態学の師匠で、今亡くなられたんですけど、吉良竜夫さんという大阪、阪大市立大学の教授で、最後は琵琶湖研究所長で亡くなったんですが、そのお弟子さんが嘉田さんという、一時知事をやってた女性の、今は国民民主党だっけ、あの方のお忙しいんでなかなか会えないんだけど、彼女も一生懸命やってます。だから多くのそういう方が、宗教家も気づき始めて、そういう近江神宮の禰宜さんが私と、私が四谷が枯れての何だかんだと言い出して、お墓に一本一本木を植えろとか騒ぎ出したから、飛んでこられて、それなりの努力はしてるんですけど、一部のお寺さんがお墓、木を切ってお墓に売ったと。その結果川が枯れたというのが、いくつもあるんです。人間が墓を建てるために、木を枯らして、川を枯らしていいのかと。なんで木を枯らしたら川が枯れるんですかって。本当そういうことも分からない。木って、川って、木があるからできるんでしょうと、いうのも分からない。宮古島って山もないし川もないのに、なんでそんな人気があるんですかって僕に言われて、水が綺麗でしょと。川がないから綺麗なんです。だけど川がないところでホテルいっぱい作って、水なくなったらどうするんですかと。砂上の楼閣を作っているようなものですよね。だから本当にね、この辺しか見てないですよね。
[江良]
でもやっぱりね、都会というかね、都市の中にいて、お金で、蛇口にひねれば水出てきて、スイッチで電気やると分かんなくなっちゃいますよね、便利すぎてというか。
[浜野]
現実に上海の水の臭さを見たらね、やっぱり東京は、まだありがたい方ですよね。
[江良]
東京は、水ね、綺麗だというか、飲めるというか。
[浜野]
多摩川がね、なんとか、いいところで水通ってるから。羽田あたりまで行く多摩川は、一旦家で通って排水で出てきて、浄化された水が通ってるんで、本当に綺麗な水は、羽村取水堰あたりまでが本当の多摩川で、あとこの大東京を通ってきたカスの水だからねあっちは。それとあっちの浅草から向こうの方の水は、飲んでる人は美味しくない。
[江良]
あっちは何川?利根川?
[浜野]
荒川とか。あっち側からのはもうまずいですよ。だから多摩川の水飲んでる人は、ありがたいと思わないとね。山ありきですよね。
人にね、私はそういう意味で、最近メザニンっていう、メザニンパーソンという言い方をしてるんですけど、メザニンて、中二階ね。浜野さんってちょっと偉いし、年寄りだし、しんどいなと。でも30代40代のあなた方のような世代の割と私と仲良くしてくれる人が、最近増えてきたんですよ。ここでトークショーやったり、映画の鑑賞会やるうちに、だんだん増えてきたんです。この間も、これを私の聞きに来られて、NHKのイベントマネジメントなんかやってる人が、今日もこの後来られたりするんだけど、何かお手伝いすることありますかって、言ってくるようになったから、発信しておくことはやっぱりいいことだなと。
[江良]
そうですね。
[浜野]
だんだん、私だと、なんか浜野さんって偉い人だと思ってる人が多いので
[江良]
それはそうですよ。僕も本全冊持ってるから、サインをもらってきてくれとか。
[浜野]
中間階にいる人は、あなた方の世代が、もう少し僕にもっと親しく付き合ってくれたらいいわけです。私もそういう意味で、中間階に降りてくるようにしないと、あまりにも釣りとか、仙人みたいになってちゃう。だからお前たちどうせ分からないんだみたいな顔をしないようにしないといけないなと思い出したのが、去年のこれを解体して新しいことを始めた時に気づいて、こういうANKOW MUSEUMや、ANKOW STUDIOを作った理由。だから僕の映画は、映画館行って見るのは大変だけど、ここでお茶飲みながら見れたらいいというのをいっぱい見てくれるようになったし、すぐそこにね、青学のちょっとしたホールがあったんですよ。スタジオという。150人くらい見れたんですけどそこ使っちゃいけなくなったんです。コロナ以降、そういう集会ができなくなったんです。
[井田]
残念ですね。
[浜野]
だから、また結構なんとかしてくれるんじゃないかと思うんだけど。
[江良]
本当に浜野さんのそういうことを、ずっと伝える、コンセプト考えて、アイデア考えて、あとはやっぱり伝えて形にして伝えていくということですけど、難しいですよね。
[浜野]
でもね、意外と簡単なのはこの、青学で始めた、立命館大学の客員と青学の客員やってたとき始めた、街歩き教室。
[江良]
街歩き教室?
[浜野]
街一緒に歩こうやと。そうするとみんなもう。
[江良]
それむちゃくちゃすごいコンテンツですね。失礼なぐらい。
[浜野]
それをやから、これから始める中に今、たいぞう君という、僕のボディを直してやろうという若者が来て、ちょっと足悪いからね、それからここが、だけど今は何も言わないですよ。彼は僕と一緒に逃げるに横から見ながら歩いてきて、もし転んだら支えるだけなんですけど、彼はそれで僕のこの集会を演出したり、街歩き教室、何日かな?11日かな?3月11日かなんかにやるんですよ。でここで集まって、ここから始まって、From 1stはなぜ作ってどうしたか。あれを作った頃、あそこに一軒のビルもファッションもなかったんですよ。ファッションブティックなんか一軒もなかったんですよ。で、ここでお金出す人いなかったんです。だけどバブルの頃に、日本のバブルの引き金を引いたのがこのFrom 1stだと、言われるの、書かれたんですよ。Wall Street Journalかなんかに。あのビルができてからズラーっとできていったのがね。
[江良]
それはでも、ズラーっとできていくのが、見えてたんですか、それこそ。
[浜野]
いや私は見えてた、分かってたから、裏にも道開いてたから、From 1stって入り口があって、裏口があって、その裏口へ道を開いておいたから、今やもう一流ブティックになっている。
[江良]
なっていますよね。それはでもどういうことが積み重なって、浜野さんだけがっていうのか分からないですけど、その時代に、それだと言って、さらに実行までする実行力は置いといたとしても、そのビジョンみたいなのはどこから来たんですか?なんかやっぱり街を歩いてらっしゃて?
[浜野]
やっぱり京都で、町屋みたいなところから生まれて育ったからじゃないですか。向こう三件、両隣があってね、街があるんだという。
[江良]
なるほど。
[浜野]
やっぱりマンションで育った人はなかなか分からんかもしれない。裏通りとかちょっと行ったらこんなところがあって、やすよちゃん、錦市場行って豆腐買ってきてとか、なんかそういうのがあったからできあがった一つの、いわばDNAみたいなものがあるんですね。
[江良]
ちなみにその街歩きツアーは一般から人を募集してるんですか?

[浜野]
それはするんですよ、それはもう私の。
[江良]
それはあれですか、浜野さんのいうメザニン、中二階的なメンバー集めてなのか、それとも若い子たちも
[浜野]
それはもう若い人誰でもいいですよ。
[江良]
それは本当に貴重な体験になりますね。
[浜野]
それはね立命館の子どもたちも、僕と一緒にいかに新宿、西新宿の、西新宿は失敗だったという講演をあそこでやったんですけど
[江良]
そうなんですか。
[浜野]
みんなよく意味が分かった。
[江良]
いわばビルのこのこれが
[浜野]
あれの商業部会、新宿新都心開発協議会商業部会というのの委員だったんです。隣に森ビルの森さんもいたし、座ってたし、三井不動産のその当時の会長もいたし、私はその中で、このまま立体交差を貫いたら、商業的損失はおそらく2000億円くらいになるよと。年間2000億円ほど損失するという。確か何で2000億円って数字出したか忘れたけど
[江良]
何でですか、理論としては。
[浜野]
立体交差にしたばかりに、一階は使えなくなったんです。
[江良]
なるほどね。
[浜野]
一階が商業ベースとして使えなくなった。
[江良]
全部あっちですもんね。
[浜野]
つまらないでしょ。ニューヨークなんかね、あんな摩天楼でも一階全部フラットでつながってるじゃないですか。だから街見ながら、店見ながらニューヨーク歩けるじゃないですか。
[江良]
そうですね。
[浜野]
あそこ歩けないでしょ。ただ前へ行けと。あんなつまらない街はないですよね。都市計画としては大失敗だと思うよ。それと同じことをまた渋谷でもやろうとしてるわけ。また。
[江良]
なるほど。
[浜野]
だから渋谷の超高層化はおそらく、僕が、一番、昨日か書いた、フェイスブックで、これ調子に乗ってたら上は全部外資に乗ってられるだけで、ミサイルも何もなくても、日本乗っ取るのは簡単だと。いうことを書いて、みんなものすごい反響があったんですけど。だから鉄砲も何もいらないですよ。日本人騙すのはほんまに。だから、今行われている渋谷や新宿や銀座で行っていることは、ほとんど外資が盆踊りしているようなもので、将来の日本には何の役も立たないんじゃないかなと思いますよね。
[江良]
ちょっと暗澹となる気持ちに、なってきちゃいましたけど
[浜野]
だから僕と一緒に戦えるかという。
[江良]
そういうことですよね。でもやっぱり戦いという言葉はね
[浜野]
それこそスティーブ ジョブスがね、なんでお前浜野と遊ばないんだって、ダグに言われてね、安閑としたらしいですよ。いままで遊んだことないな、俺と思ったらしいですよ。僕彼と2回やってるんですよ。昔ね彼がもっと若い頃。一つはねフランク ゲイリーという建築家のところで説明会やるから、コンピューターのことについて勉強会やろうとか言って。またコンピューターがあんまり今みたいに、あのコンピューターができる前はツルツルの。コンピューターがいかに世の中を変えるかってことを彼は説くんだけど、唾飛ばして。株を買えって言ったんだけど。俺はコンピューターわかんないから、明日釣り行かなきゃならないから、もうこれで、とか言う感じだったから。あと1回あったのは、どっかでもう1回、Appleの株を今のうちに買っといた方がいいぞと言われて。お会いしたことしかないんですけど。まあやっと会えるかなと思った。なんで彼が僕に興味を持ったかというと、あの本、「新野生学」持ってきて。
[江良]
「新野生学」これが。
[浜野]
このね、ダグラス トンプキンスが本屋の店頭で、この一行の英語に感動したんだって。"Life's Entertainment, Survival is a Game”ってね。これ見た時に俺の人生が変わったって言うんですよね。ここにも書いてるんですけどね。で彼はそれ以来僕のことをグルだグルだ、って言うんですよ。それで、それをまたAxisビルに連れて行ってね
[江良]
Apple Storeのね第一号店のデザインは
[浜野]
ダグが八木とアクセスしたの。その時に階段を、僕が、非常階段って普通、影に隠すでしょ。それを僕が一番真ん中に階段作って、日本の最高峰の建築家かインテリアデザイナーにデザインさせて、階段を。って言って倉俣史朗にデザインさせたのがあの階段なんです。階段を彫刻みたいに使ったわけですよね。それもすごい感動したらしいんです。そういう風に、あの時代はあれなんでそういうことできたかっていうと、オーナーがブリジストンのファミリー家の石橋寬っていう、社長だった、AXISの担当者だった。だから彼は、彼の一存でブリジストンを説得できたわけです。
[江良]
浜野さんって、これが自分の中で、成功した、最も成功したプロジェクトの一つだなみたいなものって、どういうものを今から振り返ると思われます?
[浜野]
だから、やっぱりあるプロセスにおいてはですね、やっぱり東急ハンズっていうのは、一般の人が浜野さんを知ってる、ああ東急ハンズを作った人ですかというような印象があるんですよね。それからもうちょっと古い人はやっぱりMUGENでしょうね。MUGENは20年続いたディスコで、世界に無いそうです。だから成功した。今またね、MUGENをもう一度というね運動が起きているんですよ。MUGENって大成功したと思います。観光バスまで停まったからね。
[江良]
そういう意味ではやはり、当然浜野さんの価値観もアイデアも含めて、世の中にどれだけちゃんと伝えられたかみたいなところは一つ基準になるんですかね。
[浜野]
やっぱり一般の人が僕を知ったのがMUGENですよね。それと「質素革命」の本がよく売れたことと、質素革命の服をね、藍のムラ染めのムラムラに染めた手染めをした服を、私の関係者たちが着て、朝から、歩行者天国ができたばっかりの新宿をね、掃除してたわけですよ。それでこれからこんなイベントやりますよと言って、新宿の駅の、新宿の伊勢丹の横にちょっとした空き地があって、今はもう一体化されてあって、その空き地に木組で、質素革命と、木組の屋台を組んでそこに質素革命と入って、上にバンドを置いて、ビートルスの
Mother
から始まる演奏をしてですね、で僕が演説したわけですよ。歩行者天国に向けて。その時、全部止まって聞いたんですよ。
[江良]
その写真が出てましたね。コンセプトインデックスでね。
[浜野]
あれは成功をした。その時に伊勢丹がまだ懐深くて、一番正面入り口の右側の一番いい売り場をくれたんですよ。SOMETHING ELSEというブランドを僕が、それ同時に立ち上げたわけです。単なる質素革命じゃないんですよ。ちゃんとブランドを立ち上げてたんだ。そのSOMETHING ELSEが大ヒットした。だから寝具から家庭用品、子供服全部、SOMETHING ELSEでできましたからね。
[江良]
すごいですよね。
[浜野]
で私はそれをブランド売って。さらに自分は本家のSOMETHING ELSEをもっと大きくするかどうかという時に、やっぱりそれに束縛されたくない。ブランドをEDWINに売って、また自分は辞めちゃうんですね。だから、その繰り返しですから。本当いうと、ずるいのかもしれないし、もっと頑張れば大金持ちになったかもしれないし。近いと同時に、事業家としてはやっぱり、ユニクロの柳井さんとも何度も会ってましたけど、やっぱり向こうも一緒にやる相手じゃないなと思ったんでしょうし、私も一緒にやる相手じゃないと。彼は今は、株が倍々ゲームで大きくなっていって、世界の大長者になったわけですけど、いろんな人と、だから出会ったり、一緒になりそうになって、ロスチャイルドまで巻き込まれようとしたわけですから。いつも僕は逃げてきたというのか、違うと思ったのか、やっぱりそこに根底にあるのは、やっぱり親父の思想だと思う。
[江良]
やっぱりお父様も含めた、資本主義じゃない思想みたいなものを、極端なこと言うと柳井さんのような、僕も一回だけお会いしたことがありますけど、ある意味本当に企業を大きくしていく。資本主義のシステムの中でベストを尽くされるみたいな。そことは折り合わないんですかね。
[浜野]
違うんですよ、折り合わないね。だから僕はどちらかというと修験道の行者なんですね。基本的に体質的にね。どちらかというと政治家じゃなくて革命家なんですよね。
[江良]
どちらかというと、こう体制というのかな、資本主義体制というのかな、中に入って、こことコラボしてやっていくじゃなくて
[浜野]
そういうのはねもちろん、立ち上げるまではやりますけどね。それからあとは良きに計らえで、次のことが面白くてね。
[江良]
やっぱりこう、オルタナティブな、何かこう、浜野さんなりに感じられることを、どんどんやっていくしかないっていうかね。
[浜野]
最後までこれなんですよね。だから今ね、これの簡単な映画を作ったんですよ。もうちょっとでできますけど。これ今使えなかったんだけど、何かの時に、Crystal Kingのね、果てしなく夢を追いかけて、ってあるじゃないですか。あぁ果てしなく夢を追いかけてっていう。あれをシーンの変わるたびに流れる。笑 最後、僕の後ろ姿で終わるという。
[江良]
面白いですね。
[浜野]
夢を追いかける人が、夢追い人だ。
[江良]
そういうドリーム。
[浜野]
でもね時々、もう経済的にもやばくなった。横浜で失敗してあれができなくなって。市長に裏切られてとかいろいろあった時はね、本当にどうしようかなと思いましたね。そういうことはいく度もあるんだけど、でもまぁ前のかみさんに助けられて、また新しいガールフレンドに助けられて。女性の力も大きいよねそういう時のね。
[江良]
ちょっとコメントしづらいな。どうですか井田さん。
[井田]
そうですね私たち女性スタッフもね、役に立ちました。
[浜野]
そうそう私はあの頃ね、前の会社辞めた後にね、アンコーズエンジェルスというのの一人なんですけどね、何かいて非常に助けられましたよ。
[江良]
でも、なかなかどうなんですかね、夢を持って追いかけるのも難しい時代になったのか、それは変わらないんですかね昔と。追いかける人は追いかけてるのかな。
[浜野]
昔から難しいです。夢だけでは食えないなと。でもなんとか食ってきて、なんとかや80歳を超えて、なんとかやってきたんじゃないかみたいな。おそらく今度琵琶湖に家建てて、できた時にここまで来たかと思うかもしれませんね。
一人でカヌー漕ぎながら。だからその満足感というのはやっぱり、人によってはね、やっぱりこう、前澤くんみたいにすごい金もらって、配るよみたいな人も、その満足感、宇宙行って満足するのもいるし、いろいろいると思うんですよ。僕はやっぱり、これの、「自由無限」の映画のラストシーンは、渋谷川をもう一回、キャットストリートは地下に入っちゃってるんだけど、それから宮下パークで商店街の下を流れ、渋谷駅を出たとこから、外へ出るようにというのをずっと僕は渋谷青山景観整備機構でやってきた構想通りになってるんですよね。で最後ラストシーンに僕があそこに立って、ああ川が残ってよかったなっていうので終わるんですよ。だから巨大なビルを建ってきたけど、川は残せたねっていう。他の街にはないからね。そういうようなぐらいしかないんだけど。本当に言うとまぁ、あれを元にした映画も、渋谷の男、っていうのをシナリオまでできてるんだけど、なかなか金がね。やっぱり東急が、電鉄が東急になったでしょ。あの会長が金出してやれよという話だったけど。みんな周りが固められて、この映画作るべきじゃ、ないないない、みたいな団結されて。
[江良]
それはやっぱりどうしても東急批判、東急さんの批判が入っちゃうから?
[浜野]
ちゃんとメザニンを作っておかなかったから。
[江良]
なるほど。

[浜野]
いやいやこのぐらい作らせてもいいじゃないですか、っていうのを作っておかないからできなかった。でもまだ俺は作るけど、もっと前衛的な映画で、今チームはどんどん固めてるところではある。
[江良]
お金かかりますもんね。映画ってお金かかりますもんね。
[浜野]
いやそんなことないですよ。みんなそう思うからいけない。僕の作った「さかなかみ」なんかね、あれおそらく3000万円くらいでできてる。
[江良]
まあまあまあですよね。まあまあまあ。
[浜野]
まあまあでしょ。全部だって1500万円くらいが実質かもしれないよ。でGACKTを使ったカーラヌカンは、あれGACKTでもでもね、GACKTくらいの有名人を使ってもね、映画だけってことで契約すると、結構な額でやってくれて。あれね、裏話があって、吉本と俺が組むことになってたからね、まだ助かったらしいんですよ。吉本がめちゃくちゃに仕上がったと思ったけど。この間反省しました。僕がGACKTのところ一人で頼みに行ったでしょ。その時にね、GACKTはね、お願いしますよ、と言ったんですよ。彼は14年間映画出てなかった。僕が映画出てくれ出てくれてやって、お願いしますよということは、はいわかりましたと言ったと思ったら、今沖縄人が私の助手についてるんですが、そろそろ来るかもしれないけど、彼女が、それはね、それはもういい加減にしてくださいという意味ですよって言う。
[井田]
真逆だったんですね。
[浜野]
それで映画なんて、そんなんねって言うんだろうねっていうね。いうのを僕はすぐ大崎会長に電話してね、いや引き受けましたよ、やるって言ってますよって。面白くなってきちゃって、会長がまた乗っちゃったから、真ん中にいる人たちは大変なんで、予算以内で納めて何とかしてくれたんですけど。GACKTもねやってるうち面白くなってきてね、いろんなマスコミに、彼が何で濱野さんですか、どんな人なんですかっていうのに対して、いやあんな天才はいないね、そのもんね俺が天才って言ってくれてると思ったら、あんな変人はいないっていう。
[江良]
面白い
[浜野]
最後の最後のラストショットを作るときに、この家の上で、彼がね東京の恋人と別れるシーンをね、彼がね東京の恋人と別れるシーンが、ここの上で撮ってたんですよ。でガチャンと、鍵をガチャンとこう、ガールフレンドがガチャンと置いて去っていくところをね。次を一人で眺めてるシーンをこうやって撮ってたんですね。その時もうね、全ての撮影は最後のラストショットという時ですよ。僕の隣に、あのそのシーンの最後の、そのショット撮る時に、私はここにいて、隣でGACKT君が並んで見てたわけですよ。よーいスタートって僕が言って、それから後ね、OKとも何とも、僕は言わなかったから、で、僕は寝てたらしいんですよ。
[江良]
ダメじゃないですか。監督。前代未聞ですよ。
[浜野]
それで、OKだし、どうしよう。僕はグワーと倒れちゃったから、こんなの初めてだよって。
[江良]
それはそれは、聞いたことは少なくともないですね。
[井田]
まさに自由無限ですね。自由無限。
[浜野]
疲れ切ったんですね僕は。全部放出しちゃって。だからもう、そのことをまたいろんな人に言うんだよ、GACKT君が。
あんな天才いないよって。まあ黒澤明もいろいろ言われてるようですから、いいじゃないですかって。
[江良]
結構いろいろお話をいただいてこれましたけど
[浜野]
なんか抜けてることあったら。
[江良]
でもなんかね、都市の皆さんも、まずあれですよ。この番組というかPodcastなんですけど、やっぱり聞いてる人たちがね普段何かこう、できるアクションというか、資本主義に革命を起こすのはちょっとできないけども、やっぱりできることを、こういうことから始めてみたらどうだとかですね、そういうちょっとアドバイスみたいのをいただいてるんですけど、やっぱり浜野さんの場合はこう、山に入り釣りに行けとか、そういうまずそういうことからですかね、まず。
[浜野]
いやそれとは、普段の仕事でも仲間集めて、お金集めて、やらなきゃならないんでね、やるときは。それは資本主義のスタイルの上で僕もやってるわけですから、そういう意味でやっぱり人が金出したくなるような企画にしなきゃいけないよ。
[江良]
そうですね。
[浜野]
やっぱり、しっかりした、今あの自分でこうパソコンなんかで書いてると、自分で書かない。書かないというか線で書いたり面で見たり、なんかこう、触覚的なことで想像していくのが、だんだん薄れてるように思うのです。例えば一頃、僕らトヨタの研究開発でずいぶん仕事をしたことがあって、その頃やっぱり、いつも夜中まで、畳の大きな部屋借りていただいてね、座り込んで、こういKJのカードを、KJ分類の、名刺ぐらいの大きさに色々書き込んで、バーッと並べ替えたりして。その結果僕は生み出したのは、これはやっぱりトヨタは、これからまだねアジアに進出し始めたばっかりの頃ですよ。これはやっぱりバリ島をモデルにして、トヨタの世界戦略を考えましょうという結論になったんですよ。
[江良]
なるほどすごい結論ですね。
[浜野]
それで僕はバリ島に行かしてもらった。その時に、自分の決定的な、浜野アンコウが世界で割と有名になる、決定的なコンセプトを捕まえたというか、ビジョンをクエストしたというか、それはやっぱり、巨大な円借款でできた大きなホテルが一軒建ってたんですね。バリ島に既にね。こんなのが並んじゃったら大変だと思ったんですよ。それでヤシの木より低く、建物を抑えるエリアにしようということを、違うプロジェクトに売り込んで、トヨタで何やってたかというと、一番僕が思いついたのは、そのいわゆるあのホテル、あの背の高いホテルね、インターコンチ(Intercontinental)のホテルだったんですけど、なんであの水牛しかいないこの島で、こんなにうまいステーキが食えるのかと。この値段で。そこで世界のネットワークを持っている企業でないと、一軒だけホテル出してもこんな味は出せないねと。そういうことはインターコンチ(Intercontinental)のホテル、当時はPan Americaが有力な飛行機会社で、Pan Americaとインターコンチ(Intercontinental)の資本提携があったからこのビーフステーキが出せるということに思い至るわけですよね。それでやっぱり、ネットワークシステムズオペレーションというコンセプトが生まれたわけですよ。テーマとしては、グローバル、マルチファンクショナル。グローバルネットワークシステムズオペレーションという、トヨタがこれからやる仕事はこれだと。そういうタイトルのものすごい報告書を作ったわけですよ。
[江良]
インターコンチの牛肉から。
[浜野]
そんな厚いその時の報告書が今なくて、その時にそれを元にして、パシフィックコンサルタントという土木の会社が、バリ島の、世銀のリゾートコンペがあると。世界リゾートを作るコンペがあるから、参加するか?でもお前のようなハレンチな考え方だとどうかなと思うけども、やってみろという話になって、トヨタのお金で研究したの、これ使っていいですか?これは面白いということになって、トヨタで研究させていただいた、架空の研究がですね、ガーッとそのまま活きたんですよ。
[江良]
なるほど
[浜野]
それでそのヌサドアというビーチが、かつてアゴン山の火山でダメになったエリアのビーチをどう再開発するかと。その時にワールドクラスのリゾートがいいというテーマがあったんですよ。僕はそこをヤシの木より低く建物を抑えて、母系農耕社会が、素晴らしい文化がバリにあるから、母系農耕社会を残してやるんだけども、木より低く抑えるということが、やっぱり分かりやすいコンセプトなんじゃないかと。それで今バリ島では観光バス乗っても、私たちの誇りは、木より低く建物が抑えられていることですと言うんですよ。誰が考えたかってみんな忘れちゃってるわけですよ。もちろんそのことは言わないから。私報告書の中にはTEAM HAMANOの名前で、コンセプト最初の数枚は僕が書いたというのは分かっていることなんで、ここから始まったということは証明できるんですけど。それを今度、元になったのは何かというと、さっきのご紹介にあった海洋博の周辺調査員で、ヴィセという村に長く滞在させてもらったんです。その頃旅館もホテルもなかったから、おばあさんが一人ね、ここで寝ていけばいいよと。言われて。何でおばあさんがそれを僕に言ったかというと、道をきれいに、はぎきよめてね、石を一個置いておくという。そこを僕がね、避けて、ちゃんとこう、掃き清めたところを、踏まずに歩いたことをおばあさん見ててね、あなたそこを避けて通ったねって。珍しいよってあなたのような人は。あそこ石が置いてあったでね、あの石のことも分かったのって言うから、あの石はひんぷんというんだと。ひんぷんというのはその時僕はひんぷんというのが、これは沖縄のコンセプトだなと思ったの。仕切りがないけど心で仕切ってる。その石が置いてあることでそれが分かる人かどうかというのは重要だと。おばあさんは分かったわけでしょ。僕も分かったわけでしょ。僕は京都人やから分かったのかもしれないし。その時にあなたはここ泊まっていっていいよと言った。それで僕は通産省のお金で、あの辺で長く遊んで帰ったというか、提案したのは、もう何しろここはこういうエリアにしましょうと。だから海洋博ができた時に、堺屋太一が実はね、私の対抗馬にいたわけです。
[江良]
なんかいそうですね。
[浜野]
あいつの名前は池口小太郎といったんですよ。
[江良]
あペンネームですよね。
[浜野]
池口、通産省ですよ。池口、呼ばれた、外様の委員ですよね。向こうは直系の役人でガチンコした。彼は高層ホテル街にしようと。
[江良]
まあそうでしょうね。
[浜野]
私はそのフクギの並木を残して、こういう街を残すべきだという。そっちの方はまぁ採択されたわけ。その時に、もう、いつも喧嘩してたわけ。それからあと、だから私は話はそれたけど、一切仕事を私に回さなかったから。偉くなっても。
[江良]
ちょっと過去を思い出したんですね。
[浜野]
安藤のところへ直接スルーしたんです。全部。それで私は、そのおかげで、ヌサドゥアのコンペにその村の良さを、木より低い絵を出してですね、で、そうそうそう、 “Bali must not become another Hawaii”のコンセプトを思いついたわけ。それがあって、だからトヨタには、マルチファンクションのグローバルネットワークシステムの一つの大きなテーマを与えて、今はそれは完全にトヨタは出来上がっているじゃないですか。まだアジア行ったらね、その頃アジアの担当者、タイなんかの担当者会って回ってたんだけど、お金がね、この雨が、雨季の雨が止まない限りお金は入らないからねと。なかなか月賦で払う人がお金払わないと言うんですよ。アジアは。それをどうするかが問題だとか、そんなことばっかり出てくるんですよね。だけどここでトヨタが車を売っていくのは大変だなと思いながらもね、いっぱい勉強させてもらいましたよ。
[江良]
それはあれですか、今の子がもう少し現場に出てというか、それを体感しながら、どうやってみんながこうねお金出したりとか
[浜野]
だからやっぱり現場に歩くことですよね。
[江良]
歩いて、気づいて、出会いがあって
[浜野]
僕もそこは、割と行ってみたから分かったことですよ。だから、それと、タイやらインドネシアやら、昔行ってたから分かることですよ。今はもっと分かりやすくなっていると思うんですよね。飛行機でどこでも飛んで行けるしね。その時に吉良竜夫さんからの話がこうなったんだけど、吉良竜夫さんは、どうしたらこの木より低くさせるのに説得力のあるレポートを書けるかというのを考えている時に、私みたいなラッキーな人はいないと思うくらい、飛行機で隣に座っていた人が吉良さんだったんですよ。飛行機の上からジャングルを見ておられるんでね、失礼ですけど、どういうお仕事をされているんですかと聞いたら、いやこれやってるんですよって。これってジャングルの生態学かなんかですかといったら、よく分かったねと言うから、実はこういうもんですと、お互いに名刺交換させていただいて、東京行ったらすぐ遊びに、いや大阪行ったらすぐ、日本帰ったらすぐ行きますわって言ったら、ちょうどその時トヨタのレポートが終わった後で、その世銀のコンペが来てて、これ使わせてもらいたいんですよ。先生がなんか木を切るなという何か、ここ書いてあるんですよ、この下に書いてあった、あれこれ隠したの、この下に何か書いてたんですけど、この絵を書いてたんですよ。ですからこれが、いやお金ないんですけど、先生の一言アイデアなんか書いてもらえませんかいうて。一回見てみたいなと、僕のポケットマネーでよかったら夫婦で遊びに行ってくれますか。それは大丈夫ですけど、お金もそんなもらわなくても、バリは行ってみたいと思ってたから。じゃあ交通費だけでも出してくださいと行って、僕に電話がかかってきてね、すごいこと見つけたよって。何ですかと言ったら、いやこの土地の特徴は必要以上に木を切ると、地盤が軟弱化する恐れがありますよ、ここは。それですねと言って。それ書いてくださいと。それで、吉良竜夫さんがサポートする、植生研究ができあがった。
[江良]
本当に単なる偶然から始まったといえば
[浜野]
そうそう、そこをガッとも捕まえるのもね、本当にラッキーなんですよね。
[江良]
でもね、なんてコメントすればいいんですか、どうなんですか井田さん、動物的でもね

[井田]
動物的嗅覚
[江良]
動いて、なんかこう面白いものがあって、それをこう貪欲に捕まえていくっていう
[浜野]
私の場合は、それがついてたとこもある。ちょっとでも、ついてた、この人はと思ったら捕まえてしまう。そういう自分の中の子供時代からの、そういう割と、面白い人いたらすぐ捕まえに行く、のがあったと思うんですよね。だからまあ人間関係でもね、本当に好きな人が出てくると、すぐ追っかけていって今までの人を大切にしないとこがあるといけないから、今のところ意識はそれは気をつけているんですけど、やっぱりそういうところがあるので、まあなんとかそういうことで、無法松の一生じゃないけど、まぁここまで来れたことは幸せだなとこの本にも書いてますけど、ようここまで生きてきたなと自分で思いますね。
[江良]
それは本当にあれですね、自分で何か変な妥協はせずに、自分の興味とか面白いというところに、自然に従って来れたという、そういうような達成感というか、充実感というようなことなんですかね。じゃあ今日は、本当にありがとうございましたですけど、今日一緒にいてくれる、例えば、何か質問あったりしますか?じゃあ中馬君。
[中馬]
今日色々お話を聞かせていただいて、学びしかないんですけど、イボンさんとはどこでお知り合いになったんですか?
[浜野]
イボンさんはさっきちょっと言ったかもしれないけど、ダグラス トンプキンスが、私が八木保を紹介したじゃん。八木が出かける時に、お前帰ってくんなよと。もうダグのためにやるんだったら、一生もうダグの仕事やる。そのくらいのつもりでいけよと。そしたら色々素晴らしいコンビネーションが出来上がるわけです。で、そのことをダグはすごい喜んで、一回ちょっと遊びに来いと。一応八木のやったところとか、ダグのオフィスとかも全部見せてもらって、その後今から釣り行こうって言うんですよ、彼は急に。釣り行こうって、お前釣りやれるの?ちょっとはやれるよって言って。ちょっと面白いやついるから行こうって。行こうって言って、釣り道具持ってきたんだろうって。いや後でちょっとどっか行こうかなと思ってた。行こうって言って、車で持ってこいって言って。簡単に言うですよ何してるのあの人。そしたらダグが、車乗れって言って、エアポート行くわけですよね。飛行機でどっか行くのか?って言ったら、いや大丈夫だよって。自分の飛行機がとめてあって、セスナなんですけど、ここへ乗れって言われて。本当にすごい人でね。ダグっていうのは。で、ちょっと面白い男と一緒に釣りやろうって言って、まずヨセミテの谷をこう、俺と今から会う男とは、ここの谷をこのようにして、このエル キャピタンをこう登って、ハーフドームをこう登って、こんな飛行機運転本当はできないんだけど、こんなことやったって言うなよなとか言いながら、うわーって運転して、それでさらにその次のロッキー山脈に辿り着いて、グランド ティートンが見えてきた裏から、その時の写真がどっかに出してるけど、それを見た時に、なんてすごい山なんだろうと思って、俺はここに住むかもしれないなと思うぐらい、また谷間が見えてきて、それでエアポート着いたら、パタゴニアのイボンが待ってたわけですよ。で、今からこいつと釣り行くやって。で彼はその車をパークして、今度はイボンの車に乗せてもらって、イボンの別荘に行ったわけ。その時そこがまた素晴らしいところで、この隣に僕は別荘を買いたいと思ったんだけど、その次の年に家族でアメリカ横断旅行する計画があってね、その結果として、結局彼の隣に別荘を建てて30年もお互いに暮らすことになるわけですよ。きっかけになったのはダグなんです。でイボンとはその時一緒に釣りをやったのがきっかけです。
[中馬]
そこでおにぎりを食べて渋谷の話になるんですか?そのもうちょっと後になるんですか?
[浜野]
渋谷の話はもうずっと後ですね。
[中馬]
ずっと後になるんですね。
[浜野]
だから要するにあちこち釣り、夏の生活を彼の方も会社始めたばっかりで、あんまりそんな大きな会社じゃないんで俺とよく遊べた。彼はよく考える人で、ひと夏の過ごし方がね、半端じゃないんですよ。だいたい6月の半ば頃に、その家に行くと、9月半ば頃まではずっといるんですよそこに。で釣り行ったり、考えたり、山登ったり。それだからこういう浜野ネイチャースクールの、あそこ二人目がイボンで向こうの奥さんがいるんですけど、でこれ彼の庭で、その隣の庭が私、隣が私の家が建つんですが、ほぼこんなところで浜野ネイチャースクールを始めるわけですよ。それまで僕ミクロネシア協会(社団法人日本ミクロネシア協会、現、一般社団法人太平洋協会)をやってて、ベトナムサイパンで毎年100人連れて、ツアーやってたから、ここに切り替えた。それが1988年に家ができるから、ジャクソンの。あの家ですよね。前はスリーピング インディアンがあって、前はグランド ティトンが。後ろと前にこの山がそびえてる。だからまさにイボンの家も同じ状況です。で、だからそんな感じで初の出会いはダグですね。
[中馬]
すみませんありがとうございます。どういう経緯だったのかってすごく聞きたくて。
[江良]
一緒に釣りに行く夜になってから、ご家族でイボンさんの別荘で1ヶ月くらい滞在されてるみたいな。そのこう一緒に釣りしに行ったからって、そんなことならないだろうとかちょっと思ったりしますよね。
[浜野]
その頃はもう本当に彼の服は全然まだできてなかった。今はだんだんパタゴニアもね、お嬢さんがマーチャンダイジングやるようになって、クレアって。その頃はうちの新平もクレアも小さい頃で、その雑草をクレアの背丈で2人で遊んでたような時代ですよね。クレアさんがいると思いますけど、クレアがそこにいますね金髪の長女。クレアでその左の黄色い帽子を被ったのがフレッチャー ですね。
[井田]
すごい余談ですけど、浜野さんと一番最初成城の街で会ったじゃないですか。その次って浜野さんのファミリー全員と一緒にお蕎麦を食べたんですよね。なんか浜野さんというか家族がオープンというか、なんか日本って仕事と家庭と全部別々だけど、そういうのが常に一緒でしたよね。
[浜野]
そうですね。
[井田]
なので当時から。
[浜野]
だからそれが私の考えやし、イボンの影響も大きいですよ。イボンやダグの生活の仕方の影響は大きいですよ。そういう僕が、どうしてね、だんだん家族がどうやって変になっていったかというか、それはイデオロギーでしょうね。イデオロギーと、なんか変な宗教が絡むと、家族を潰れるし、イデオロギーが問題だ。
美術手帳というのの特集で、昔1968年僕はMUGENを作るんだけど、MUGENを作る前後の時に出た美術手帳、美術手帳が大きなきっかけになってMUGENができるのかどうか分からないけど、美術手帳で共振を超えてという、本当にイデオロギーと宗教を超えていかないと、アートは面白くないという長いことを書いて、一発の銃声がアメリカを変えたというね。誰かが撃たれるでしょう。
[江良]
ケネディですか
[浜野]
その辺で、そのケネディじゃなくてもう一つのことだったかもしれないけど、サイケのポスターが流行った時に、ポスターアートという大特集を僕はさせてもらったんだけど、割と美術手帳なんかによく書かせてもらう時代があったんですよ。それは大きかったかもしれないね。今度、MUGENができるまでには、エンバイロメンタルアートというものに対する、僕はエンバイロメンタルアートと、それから横尾忠則との出会いとか、一柳慧との出会いというのも大きいと思う。その頃stagという雑誌の編集長をやった。あの頃にすごい沢山の人と出会えたんですよ。
[江良]
だからやっぱりMUGENに人が集まってきたし
[浜野]
だからそれが大きかったよね。一挙に人材が膨らんでいくんですよね。その編集長、だからテレビに出てる時もstag編集長で出てたわけですよ。だからザ フォーク クルセダーズとか、錚々たるミュージシャンなんかも一緒にやれたしね。
[江良]
だから多分、浜野さんの作られる場に行くと、何か新しい情報というか、最先端のものがあるっていうような、そういう仕組みというか、コミュニティーの核にいらっしゃったということですね。
[浜野]
だからマイケル グレイブスでもね、AXISのAXIS誌の4号編集長を僕はやった。今でも雑誌続いてるんだけど、あれを社員も、ブリヂストンも全部反対したんですよ。雑誌出すことは。僕は絶対やれと。これがなかったら絶対持たない。団結が持たないっていう。それで未だにあってよかったと思うんですが。
[江良]
その価値観みたいなものが、みんなで形にして作ることで、同じ共有体験ができて、
[浜野]
パタゴニアからそうなったけどね。だから結局きっかけがそういう雑誌だったりするんですね。その雑誌やってる上で、プレイボーイの編集長と友達になって、島地さんっていうのは、僕とサインが入っている、その頃の編集長だった。島地さんがまだ開高健がいる時代に、なんで開高健じゃなくて、浜野さんにこれやらせたかというと、釣りの実力が全然違うと。浜野さんやったら面白い本になるやろけど、開高じゃできないというのが分かったから、それを出したわけです。現実開高さんは風がなかったら、フライヤー無理だと言ってるような人ですから。どんな突風でもフライフィッシングは飛ばせなかったら釣りにならないんで。あの程度の力量で、作家やから書けたんだけどね。あのぐらいのことをやる。僕はアマゾン行っても、余談やけど、彼はピラルクを釣らなかった、釣れなかった。僕は17匹も釣っちゃったからね。1日に。こんな簡単に釣れるのかと思った。だからそういう風に釣り界でもね、僕はみんなのけもんにされて、釣ってしまうからね。なんとかしちゃおうアンコウさんと言われてて。
[江良]
釣ってしまうと確かにね

[浜野]
理屈なくに釣ってしまうので困るらしいんですよ
[江良]
妬みですね
[井田]
その妬みは強いですよね
[浜野]
周りの社員も大変だったね
[井田]
どこででも生きていけるタフネスを身につけられました
[江良]
今日は一旦ここまでで。
[浜野]
何に使ってどうするかよくわかんないけど、うまくやってくださいよ。
[江良]
これを皆さんに聞いていただこうと。この会話を。本当に修験道のプロジェクトとかも楽しみなんで。またぜひお話を伺せていただいたり、何より遊びに行かせていただければと思いますので。
[浜野]
別にそこでなくてもここでも遊びに行けますのでね。
[江良]
そうですね、ぜひぜひお願いします。今日は浜野安宏さんにお話をさせていただきました。どうもありがとうございました。
[井田]
ありがとうございました。
[浜野]
こちらこそ。