#026: 坂口修一郎さん: 株式会社BAGN 代表取締役 : プレースメイキング、地域で得れるものと都市で得れるもの、玉ねぎの皮

記事の掲載場所: 2025年9月5日

坂口 修一郎
株式会社BAGN 代表取締役

1971年鹿児島生まれ。1993年より無国籍楽団「ダブルフェイマス」のメンバーとして音楽活動する傍ら、株式会社BAGNを設立。2010年より野外イベント「グッドネイバーズ・ジャンボリー」を主宰。東京と鹿児島を拠点に、日本各地でオープンスペースの空間プロデュースやイベント、フェスティバルなど、ジャンルや地域を越境しながら多くのプレイスメイキングを行っている。instagram : @shu_sakaguchi

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(撮影:坂口修一郎)

Key Words: 

BAGN, Double Famous, GOOD NEIGHBORS JAMBOREE, Casa BRUTUS, トランペット, 渋谷系, レゲエ, ニューウェーブ, フジロック, アメリカ同時多発テロ事件 / 911, PA(パブリックアドレス), アンプリファイア, UNiT, リーマンショック, 森の学校, 川辺町, しょうぶ学園, ボルボ, ムラ社会, オフグリッド, ムーミン, スナフキン, 宮本恒一, 世間師, 幕藩体制, ガラパゴス化, 天才バカボン, 村上春樹, 大御所, 海ガメ, センス・オブ・ワンダー, オーバーツーリズム, ローカルエコノミー, 名山堀, 鶏飯

エピソードを読む:

[江良]

本日のalt-Tokyoですが、ゲストに株式会社BAGNの代表取締役、坂口修一郎さんをお迎えしてお送りしたいと思います。坂口さん、どうぞよろしくお願いいたします。


[坂口]

はい、よろしくお願いします。


[江良]

じゃあまず中馬君から坂口さんのプロフィールをご紹介お願いします。


[中馬]

はい、坂口修一郎さん、今日のゲストです。株式会社BAGN代表取締役。1971年鹿児島生まれ。1993年より無国籍楽団「Double Famous」のメンバーとして音楽活動をするかたわら、株式会社BAGNを設立されています。2010年より野外イベント「GOOD NEIGHBORS JAMBOREE」を主催。東京と鹿児島を拠点に日本各地でオープンスペースの空間のプロデュースやイベント、フェスティバルなど、ジャンルや地域を越境しながら多くのプレースメイキングを行っています。


[江良]

どっから始めればいいのか、というのがあるんですけれども、坂口さんってよくお仕事、何屋さんなの?みたいのって。


[坂口]

むっちゃ言われるんですよ。


[江良]

そうですよね。でも、いろいろね、一つにこうってことでもなく、いろんなものをプロデュース、作り出してるんだと思うんですけど、ご自身だとどういうことをしてるみたいな、整理みたいなのってお有りになるんですか?


[坂口]

うん…。整理がついていないことが、割と問題…。問題でもないんだけど、自分の中では一貫してるんですよ。僕はもともとトランペットを吹いて世の中に出てきたような人間なので、トランペットを吹いて演奏しているときって、音楽を演奏していると、空間がやっぱりできるじゃないですか、その雰囲気というか。で、それをやっているのと、公園を作ったり、施設を作ったりするのは基本的に僕の中では一貫しているので、フェスティバルをやったり、イベントをやったりというのは一貫しているから、あんまり自分の中で矛盾している感じはしないんだけど、世の中の人はミュージシャンですよね、バンドマンでミュージシャンだったのにいろんなことやるんですね、いろんなことやるんですねと言われるけれど、僕の中ではあんまり違和感ないというか。自分がトランペットを吹いて作れる場もあるし、DJをやったり選曲をしたりして作る場もあるし、別に音楽はしていないけれど空間を作っていたりするっていうのは一貫しているので。空間を作る仕事。


[江良]

プレイスメイキング。


[坂口]

プレイスメイキングだと思っています。スペースじゃなくてプレイス。


[江良]

え、スペースじゃなくてプレイスっていうのは。


[坂口]

スペースっていうのは物理的な空間、僕の解釈では。物理的な空間で、プレイスっていうのは人が介在してできる空間、場。


[江良]

場っていうことですね。

本当にそこら辺をね、場っていうのは本当に、今の時代、本当にキーワードというか、大切なことなんだと思うんですけれども。まず、今ざっくりそういう話でしたけど、もう少し細かく、坂口さんの歩みを、ぜひお聞かせいただきたいんですけど。その前に、今ちょっと、ここいる場がちょっとね、相当特別で。

 

[中馬]

そうですね。


[江良]

この場が、多分、この会話というか、この空間にね、もたらす、僕たちに影響を、大分もたらしていると思うんで。今ここは、鹿児島の日置市にある、坂口さんのご自宅に来ているんですけども。これをまた言葉で説明するのも、だいぶ難しいんですけども。


[坂口]

外で波の音聞きながらやった方がいいかもしれないくらいな感じですけど、虫もいるしね。今、家の中でやっていますけども。


[江良]

はい。今、午後9時くらいなので、見えないんですけど、目の前に東シナ海の。


[坂口]

水平線が見えて。


[江良]

水平線が何の人工物の遮絶なく、

[坂口]

うん、そうですね。


[江良]

バーッとこう、ほんと首をグッと180度回すと、全部海の先に地平線がみえて。


[坂口]

水平線が


[江良]

水平線が見えて、今日はね、そこに、ちょっと雲もありましたけど、


[坂口]

夕陽が


[江良]

夕陽が目の前に沈んでいくような場所の中に、2,000坪ある土地の中で、ポツッと


[坂口]

ポツンとね、一軒家笑

[江良]

30坪ぐらいの、白い一軒家が建っていて、興味ある方は、


[中馬]

Casa BRUTUS


[坂口]

最近取材してもらったので


[江良]

最近出た(Casa) BRUTUSのやつを、後で中馬くんが撮った、ナイスな写真を、ウェブサイトの方で、

[中馬]

そうですね、(写真を)ちゃんと付けるといいんですね。


[江良]

そういう場所で。この場所についても、後でちょっと話したいんですけども、今そういう場所で、みんなで食卓を囲んで話をしています。


[坂口]

本当に人里離れたっていう、感じでしょうね。物理的にはそんなに離れてないんだけど。


[江良]

鹿児島から車で30分くらいですよね。だからそんなに。60万人くらいいる鹿児島の都市から30分だけ離れた先に、こんだけ人里離れた、ビーチとかもすごいのに、あんまり誰も来ない。


[坂口]

誰もいない。


[中馬]

すごいですよね。だってものすごい(ビーチが)距離あるじゃないですか。右を見ても左を見ても。


[坂口]

うちは砂丘の上なんですよね。50キロくらいの長さの砂丘の中に、ポツンと、2,000坪の土地が、海の目の前にあって。それを見つけてずっと開拓している最中です。まだ全然何もできないというか、家しかない。


[江良]

多分、この家のこと話して、多分3時間くらい話せる笑。実際僕たちもうすでにここで、来るまで3時間くらいこの家の話をしてるんですけど笑、ちょっと一旦


[坂口]

それは置いておいて。


[中馬]

あとでまた。


[江良]

どこから。でも坂口さんは最初は鹿児島生まれなんですよね。


[坂口]

そうです。鹿児島で生まれて、その後父の仕事の関係で藤沢で育って。


[江良]

それ何歳ぐらいの時か。


[坂口]

もう生まれてすぐ藤沢に行ったみたいですよ。だから覚えてないんですよね。

で、小学校に上がるちょっと前に、今度また父の仕事の関係で、両親ともに鹿児島でうちは代々鹿児島なんで2人とも、戻ることになって、だから633で12年。12年プラスちょっと、その小学校上がる前に1年ぐらいいたから、5歳ぐらいで帰ってるんで。だから12、3年鹿児島にいて、そこからずっと東京です。東京と神奈川っていう感じ。


[江良]

東京に大学で出てきた。


[坂口]

大学で出てきた、そうです。


[江良]

で、今は鹿児島に住まれてるんですよね?


[坂口]

今、鹿児島です。36とか37ぐらいの時から鹿児島と東京の二拠点を始めて、行ったり来たりして。でも拠点は世田谷だったり、神奈川だったり、やっぱり東京の西側なんですよね。九州の人間って、大体西側に住むんですよ。


[江良]

なんでですか。


[坂口]

やっぱり昔は列車が品川とかに着いたからじゃないかな。東北の人は上野とかあっちの上に住むって言われてて。


[江良]

なるほど。


[坂口]

言われて、あ、そうなのかと思ったけど、なんか西側が多いみたいですよね。それは歴史的にも島津家が鎌倉の人だったとか、もしかするとそういうのもあるかもしれないですけど。


[江良]

坂口さんを、でもどこから遡るかっていうのはもちろんあるんですけど、まあでもやっぱり僕的な感覚でまずDouble Famousみたいなところからですね。やっぱりトランペット吹いてて、バンドはどのぐらいの年齢の時から、どういう感じで始まっていったんですか?


[坂口]

バンドは、Double Famousは93年に結成してるんですよね。だからもう何年?30…


[中馬]

そうですね、32年…え?32年ですね。?


[坂口]

そう、もう恐ろしいよね笑。もう、本当レアグルーヴ中のレアグルーヴですよ、だからもう、本当に。僕ら90年代に70年代のレコードとかを、すっごい必死で探してたでしょう。90年代から70年代って20年ちょっとじゃない。


[江良]

そうですよね。


[坂口]

僕らもうそれよりも古い音源を作ってたと考えると、もうびっくりするんですけど。だけどトランペット始めたのは10歳の時なんですよね。


[江良]

なんか影響とかあったんですか?


[坂口]

そう、トランペットは子供用のトランペットってないので、それなりに楽器が大きいから、ちっちゃい子はできないんですよ。だからどこの吹奏楽団も大体小学校の4年生ぐらいからしか入れない。それまではピアノやってて、だけどなんか一箇所に落ち着いて、ピアノってピアノの楽器のところに行かなきゃいけないじゃないですか。それがすごく嫌で。ずっと座ってなきゃいけないっていうのが苦手で。それで親になんかもうピアノ辞めたいんだけどって言ったら、せっかくちっちゃい時からここまでやってきたんだから、もうちょっとちゃんと音楽のことでやればって言われて、そしたらうちの小学校が吹奏楽部が盛ん、鹿児島って盛んなんですよ、すごい吹奏楽部、吹奏楽団が。それは日本で初めてトランペットとトランボーンとかそういうの吹いた人が薩摩人だったから。


[江良]

あ、そうなんですか。


[坂口]

そう、明治の時。まあそういう多分歴史的なことがあって、盛んなんですよね。どこの小学校にも大体ある、吹奏楽部は。で、あの金色にピカピカ光ってるトランペットだったら、一箇所に座ってなくてよくて、持って歩いて、あちこち行けるし、こっちの方がいいなと思って、特に何も考えず、あれがいいって言って。


[江良]

それはじゃあ、街の公園とか、どっか行って吹いてたんですか。


[坂口]

そうそう。小学生だから、小学校の先輩たちがやってるのを見て、あっちの方がいいって言って、特に何も考えずそっちに、トランペットの方に。で


[江良]

じゃあ、まず吹奏楽みたいなことを。ベースのテクニックを。


[坂口]

まあテクニックというか


[江良]

というか、まあまあ吹き方を。


[坂口]

まあ、吹き方を習って。だけど同時にその小学校4年生くらいっていうと、YMOが全盛期だったので当時。なのでそっちも聴いてて。だけどどうやったらあんな音楽になるのかわかんない。けど音楽は子供の頃からもっと物心つく前から好きだったみたいで、親から言わせると。それでなんか自然とそういう風になった。でやってるうちに、別に音楽でなんかやってみようとか全く思ったことなかったんだけれど、たまたま大学に入って、その時って90年代なんで、渋谷系とかがね。


[江良]

ありましたね、はい。


[坂口]

そういう時代で。で、大体ね、トランペットやる人ってね、クラシック、まあ吹奏楽か、ジャズか、みたいな感じなんだけど、まあレゲエだとかいろんな音楽が好きだとか、ロックだとか、ニューウェーブだとか、そういうのが好きでトランペットやってるっていう人はほとんどいなかったんですよ。そしたら、いろんなとこ、なんかそういうことがわかるの、っていう感じでいろんなとこに呼ばれるようになって、それで学生の頃からいろいろ呼ばれるから、もう呼ばれるがままに、そんな大したテクニックもないのにね出ていくようになって、そっからなんですよね。


[江良]

なるほど。でも学生の時からDouble Famousなり、その演奏の活動があって、でもその大学を出て、就職とかされたんですか。


[坂口]

就職はね、就職活動とか考えたことなかったですね。だから音楽でやっていけるんじゃないかと、若気の痛みで。そんなこと全くなかったんだけど思ってたんで、のほほんと。ところが、大学出ると仕送りとか止まるじゃないですか。


[江良]

まあねえ。


[坂口]

止まるじゃないですかというか普通に


[江良]

止まるべきです笑


[坂口]

親がもういいだろってなって。そしたら、やばい生活の固定費が払えないぞって。


[江良]

そういう壁に。まず第一の壁が、社会の。


[坂口]

バイトとかはしていたけれど、定収入がないと。音楽なんて低収入ないわけですよ、あったりなかったりでしょ。だけど生活費は固定で出ていくじゃないですか、家賃とか。これを払えないぞってなって、これはまずいってなって、それで初めて定収入を得なきゃいけないっていうことになって、とあるフランス系のアパレルに就職したんです。音楽だけじゃ食っていけないと思って。


[江良]

それは販売みたいなこととか。


[坂口]

最初は販売だったですね。でもそこがCDのリリースとかね、レコードのリリースとかするような、音楽をすごくフューチャーしたブランドだったんで、だったらいいかなって思って。それも特に何も考えず、一時的に就職したって感じ。


[江良]

何年ぐらい続いたんですか。


[坂口]

いや意外と続いた気がするな。5年? 6、7年やったと思います。ブランドは変わったけど。やっぱり、でも音楽系の繋がりがあったんで、そっちに行ったっていう感じがあって。


[江良]

音楽の仕事とか音楽のいろんなことを知れるし。


[坂口]

っていうのが、なんか音楽だけで食っていけるって、やっぱりあんまり思ってなかったっていうか。別に音大行ったりしたわけでもなかったし。


[江良]

いろいろこうたまたまそのジャンルでトランペット吹くのがっていうことで呼ばれて呼ばれてみたいなことだったから


[坂口]

そうやってたんで、ただその自分たちで、下北沢とかのクラブでイベントをやったり、そのイベントが盛り上がる、DJやったりとか、みんな、当時みんなしてたんで、アナログレコードを買いあさって。だけどやっぱりバンドがあった方がその盛り上がるよねとか、もっと人も集まるし楽しいよね、場ができるよねとか、なんかそういう感覚でバンドも始めたので、だから最初から音楽を追求しようというよりも、場を作るための一つのツールとかコンテンツとして自分の音楽を捉えてたというような部分もあって。


[江良]

なるほど。それはやっぱりそういう場に。何なんですか、その場を作る、坂口さんにとっての魅力というか、なんかみんなの笑顔が見てると気持ちいいとか、どこら辺がこう感じてらっしゃったところなんですか。


[坂口]

やっぱりなんかその90年代って、すごく音楽が輝いてた時代っていうか。


[江良]

そうですねえ。


[坂口]

うん、だったし、で、先輩たちがやってるそういう活動、僕よりもちょっと上の先輩たちがやってるところとか、あとはフジロックにね、出させてもらったっていうのは結構大きくて、自分の中で。


[江良]

何年ぐらいですか。


[坂口]

フジロックに最初に出たのはね、2001年ですね。


[江良]

2001年。


[坂口]

うん、同時多発テロがあった年。あれが911なんで9月でしょう。フジロックに出た直後がそれだったんじゃないかなと思うんですよね。それで、あれは自分にもすごいショックだったんで、ニュースとして。その直前にもう天国のような場所にいたんですよ、7月の末に。音楽が鳴っていて、ご飯があって、いろんな人がいて、ミュージャンもいて、自分たちはそこでラッキーなことに演奏できるような立場にいて。でもう何千人という人がもうすごい自分たちの、自分の力がこう拡張するんですよね、ステージに立つっていうのは。PA、PAっていうのは、PAPAっていうとみんなもうPAという略語で、あれはパブリックアドレスっていう(言葉)の略語で。


[江良]

あ、そうなんですか。


[坂口]

そう。なので、何千人何万人という人のアドレスに等しく音を届けるっていう意味なんですけど、要はトランペットでブーって吹いたらもう100人もいたら、もうそっから先は届かないんですよ。だけどアンプリファイアして、PAを通すことによって何千人とか何万人に届くんでしょう。っていうのは自分のやってることをこう拡張する、電気的に。でもそのことによって何千人っていう人がすごくこう踊ったりする、楽しく歌ったりする、っていう経験をすごくしてた。一番大きいステージが2001年だと思うんですよね、自分たちの中では、それまでは限られたライブハウスとかで何百人の前でやってたけど。でそういうこうまあいわゆるクラウドというか、その中でわーっていう、もうアドレナリンが出るような体験をした直後に同時多発テロみたいなニュースで見て、なんだろう、一音出して何万人が喜んでるっていうのと、一撃の誰かのものすごい強烈な憎悪で、何万人、何万人どころじゃない人たちがものすごいショックを受けるという、その明暗みたいなのをすごく感じて、これはああいう場を作っちゃいけないなっていうのを強烈に感じた年だったんですよね。でも逆に言うと音楽はなんかすごくそういう大きい一体感を生み出せるし、場を作るものすごい強力なツールになるっていう風にも思ったし、そういうのを感じた時だったかな、30代、30代前半くらい。


[江良]

その時はまだそのアパレルだったんですか。


[坂口]

そう、仕事しながらだったんですよ。だけどそういうのを体験しちゃったから、もっと自分はものを作る、プロダクトを作るっていうのは、プロダクトもやっぱりそれを着たり、人にとって場を作ると思うけど、ちょっとそれだけじゃないことは自分はやってみようかなと思ったのは最初その時だったかな。


[江良]

それでどういう動き方になったんですか。


[坂口]

辞めたんですよ、会社を。


[江良]

なんか辞めよう、みたいな。あまり先を考えてない。


[坂口]

全然考えてない。


[江良]

とりあえず辞めようと。またその


[坂口]

そうしたら奥さんにすごい怒られて。「なんで相談もせずにいきなり辞めんだよ」って笑

 

[江良]

それは怒りますよね笑


[坂口]

それは怒りますよ、今から考えれば。若気のいたりにしてはもう30歳ですよ笑。今の俺がそういう人を見たら怒ると思う笑。


[江良]

相談も、相談はした方がよかったですよね。


[坂口]

でもね、なんかね、衝動的にそういうことは言っちゃうんですよ。


[江良]

まあね、あんま考えるとね、逆にね。


[坂口]

そう、考える前に手が動く足が動くっていうパターンは多くて。あ、もうこれだって思って、辞めた!って言って、辞めちゃった、、辞める前に言え!みたいな笑。


[江良]

なるほど、でもそれでまたなんかこう自由というか、なんかあまり何も制限されず、何もこういう価値を作れという命令もなく、何かこうフラットな中で、何かを作りたければ作れるし、作りたくなければ何もしなくてもいいし、みたいな時間が訪れた中で、何がこうヒントというか、最初の機会が生まれていったきっかけだったんですか。


[坂口]

いやー、なんかね、辞めたはいいけど本当にだから一回経験してるのにも関わらず、全然その固定費を稼げないんですよ。


[江良]

まあね、全く学生の卒業したタイミングと状況は一緒になったってことですよね。


[坂口]

そうそう。だから、収入がある時はあるけど、無い時は2ヶ月ないみたいな感じになるから、じゃあある時にプールしておいてってすればいいけど、楽器買っちゃったり機材買っちゃったりとかもするし。だから、収入は変動費で、でも支出は固定費でみたいなことになっていくので、それは今もあんま変わんないんですけどね。今の会社やってて、自分で会社やれるようになってもあんま変わんないんだけど、で、これはちょっとやっぱり、だから学生の時に考えてた、これじゃまずいからっていうのと、もう一段階、その自分の好きなことだけやっているようでは、多分先がないというか、その日暮らしみたいになっちゃうなって思って、これは何かもっとそのオーガナイズするというか、自分のやりたい音楽だけじゃない、やりたいことだけじゃないことをしっかりとベースを作んないとダメだよなーって思うようになったし、で、当時すでにもう30いくつになって、そこそこ世の中で言うと中堅みたいな感じになってくるじゃないですか、会社に普通に入った人たちからすると。自分はそういう感じになっていないけど、自分はサラリーマンみたいなこと、アパレルで(会社に)いたりしたけど、そんなサラリーマン社会でもなかったけど、周りの友達を見たり、あとは友人のスポーツ選手、プロになったスポーツ選手とか、30いくつになると引退し始めるでしょう、サッカー選手とか。で、あれって現役のプレーヤーとしては一段階次の段階に行かなきゃいけない時に、自分は何やってるのかなーって。じゃあ何ができるんだろうってもう一回考えだしたんですよね。そうなるとやっぱりその音楽を、純粋に音楽だけを作るってことを自分はやりたかったのかっていうと、音楽があることでできる場の方に興味があったから、だから音楽というよりは音響というか、それが響き合って何かが生まれるっていう、場所が生まれるっていう、空間が生まれるっていうのに関心があると。で、デザインとか建築とかそういうものに興味もあったし、だったらちょっとそういうことをやろうと思って、代官山のUNiTっていうクラブを作る話があったんで、そこに潜り込んだんですよね。まあオファーしてくれたんで。自分たちのライブをやったりする時に演出とか全部自分でやってたんで、そういうことができるんだったら、空間を作ったりっていうこともできるんじゃないのっていう話。たまたまそういう話をもらったんで、そこにもうバッと入って。


[江良]

じゃあ、それはこう照明というか、光どうすんのとか。


[坂口]

そう。音響照明をどうすんのとか、空間をどうやって作るかとか。


[江良]

まあそれは箱の立ち上げみたいなところのディレクターというか。


[坂口]

うん、ディレクションをする。


[江良]

なるほど


[坂口]

で、そっから明確にあの空間を作るっていう仕事をするようになったっていう。


[江良]

なるほど、じゃあそれが一つUNiTを作り上げて、空間を作れるんだ、みたいな、作ることが仕事にできるんだ、みたいなことから、また次が始まっていくわけですね。


[坂口]

そう、それがやっぱり結構大きくて。


[江良]

これは今でも続いているお仕事ですもんね。


[坂口]

今でも続いている、うん。だからそこで、自分が演奏するだけじゃなくて、いろんな人が演奏するステージを作るっていうか、場所を作るっていうか。そうするといろんな人と繋がれるし、オーガナイズにするっていうことに、自分がそれは向いてる、向いてるかどうかは別として、それは自分でわかんないんで。でも、これだったら、まず仕事になる。自分の今まで経験してきた、フジロックであるとか、小さいライブハウスもあったし、いろんなところで自分も演奏する側だったし、演出をする側だったし、そういう経験がちゃんとこう、経験とそれなりに得た経験値とスキルが、人に、誰かに提供できる。


[江良]

なんか役に立つし、誰かが喜んでくれる。


[坂口]

そうそう。


[江良]

で、自分も基本的にはそういう空間を作って、誰かに何か届けて、そういう喜んでもらったりすることが、そもそもそれが好きだから。


[坂口]

できそうだから、っていう感じになったんですよね。でも、それは代官山でやっていたことで。で、それが2008年までだったかな。2003年から2008年まで5年間くらいそれでやってたんですよ。で、その間に東京でもリーマンショックがあったりとか、東京っていうか世界中でね、リーマンショックがあったりして。で、リーマンショックは結構なんか、関係ないのにちょっとしたショックで。あの、金融なんてもう全く自分には関係のない話だと思ってたのに、リーマンショックの後って、結構ね、東京にいろんなイベントが低迷してちゃったんですよね。


[江良]

えー、なんでですか。単純にこう


[坂口]

世の中にお金がなくなったから。


[江良]

来る人が、今までクラブで遊んでたけど、来なくなった、お金なくてみたいな。


[坂口]

うん、とか。で、音楽業界も、2002年が音楽業界ってCDの売れ行きのピークだったんで、2008年ぐらいっていうのはもう下がり気味。なんか斜陽産業みたいになってて、そこにリーマンショックもあってみたいな感じだったから、なんか、いろんなその、2008年ギリギリまではいろんな、東京でもパーティーみたいなのがあったけど、なんかそういうのもちょっと下火になって、そんなに簡単に影響受けるのかと思って。でもやっぱり、都市にいる、都会にいるって、お金がないと楽しくないっていう。あの、まあそればっかりでもないんだけども。


[江良]

まあでもそうですね、お金がないと、まあ何もできないと言えばね。


[坂口]

うん。基本的には、消費。消費で成り立ってるっていうか。


[江良]

そうですね。


[坂口]

うん。それはモノにしてもそうだし、音楽みたいなコンテンツにしても、そうでしょ。で、それはなんでだろうなっていうのをすごく考えるようになったんですよね。で、ライブハウスにしても、囲い込むことでビジネスにするんですよね。だから、500のキャバのライブハウス、1000人のキャバのライブハウス、でそれをソールドアウトにするっていうことで、お金を組み立てるっていう。1000人が、何千円かのチケットでソールドアウトするってことは、これくらいのインカムがあるんで、そうすると会場費はこれで、ギャランティーはこれで、どうのこうのってことを組み立てていく。でも、音楽なんて、耳は閉じることできないから、どっかで誰かが音を出してるのは聞こえちゃうものでしょ。本当は囲うものはできない。だけどそれに壁を立てて、囲い込んで、ビジネスにしていく。なんだけど、チケットを払う人のお金がなくなれば、それも成立しない。で、CDにしても、CDっていうパッケージにすることで、囲い込むことでビジネスにしていくみたいなのって、なんか、本質的な音楽のありかたと、ちょっと違うような気がするなって


[江良]

確かに、そうですね。


[坂口]

なんかモヤモヤ思うようになって、でも、そこでフジロックとかああいう野外フェスティバルって、壁がないから、物理的、まあいろんなオペレーション上の問題はあるけども、何万人とか来れるわけじゃないですか。そこにはちょっとした自由を感じてたんですよね。で、じゃあ次に自分も何やろうかなってなった時に、ああいう、フジロックですごくいろんなものを学んでたんで、フェスティバルという形で場を作れないかなって思えた。


[江良]

野外で?


[坂口]

野外で。で、アウトドアも好きだったし。なんだけど、じゃあそれをどこでやるのってなった時に、東京にはもう隙間がないって思ったんですよね。じゃあどこでやるんだってなったら、自分は両親も鹿児島の人間だし、まあ、物心ついた頃から一番多感な時期を鹿児島で過ごしたし、で、今の自分のものの考え方であるとか、なんでトランペットをやったんだろうかとか、それは歴史的に鹿児島が日本人で初めてトランペットを吹いた人たちが薩摩の人だったみたいなことで盛んだったっていうのも、多分そういうのがあったんでやってる人が多いから、子供の頃何も知らなかったけど、あれがいいかって思ったんじゃないかとか。まあいろいろ考えると、すごく歴史的なコンテクストの中に自分が、大きい河の中にいるっていうのを、なんか感じるようになって。


[江良]

なるほど。


[坂口]

うん。そうするとそれはじゃあ、東京でやることではないなと思って。東京でいろんなネットワークができて、そのミュージシャンの知り合いとか、デザイナーとか、いろんな知り合いができて、そのネットワークのコミュニティの中でやっていたけど、それを返すのは東京、東京で得たものを東京に返すんじゃなくて、自分のルーツに返した方がいいんじゃないかなって思いになって。で、鹿児島に始めたんです。


[江良]

それは何年?


[坂口]

2010年。「GOOD NEIGHBORS JAMBOREE」。


[江良]

でもリーマンショックって何年くらいでした?


[坂口]

2008年。


[江良]

じゃあそこら辺からこう、もやもやもやもや考えだして。


[坂口]

うん。それで2009年に。えっと、2008年にダブルフェイマスが結成15周年で、大きいフェスティバルツアーっていうのをやったんですよ。北海道から福岡、九州まで。で韓国の、海外のフェスに出たりとか、そういうのをレコード会社とかいろんなのもあって、やらせてもらったんだけど、鹿児島には行かないんです。九州だと福岡どまり。


[江良]

まあフェスもないし、あまり。


[坂口]

フェスもないし。うん。だとしたら、もう鹿児島にないんだったら、もう関東、首都圏にも十分にイベントがあるので、鹿児島でやろうかなみたいな感じになったっていう。


[江良]

でもあの、すごい象徴的な場所の、あれ、なんて呼べばいいですか、あの場所の学校の。


[坂口]

ああ、はい。森の学校。当時はかわなべ森の学校。


[江良]

でもそういう場所とかも、結構さっと出会えたもんだったんですか。


[坂口]

いや、それが。そっからがまた笑。


[江良]

いや、まあそうですね、まあね、それは、またその、ね。


[坂口]

あのね、日本で、野外で音を出せるところって本当に限られるんですよ。本当すごい山の中だったらあるんだけど、インフラがなければ人が集まれないから。まずインフラってのは道がない、電気がない、水道がない、排水がない、下水がない。で、そういうところでは何千人、何万人集めることができないので、インフラがあって、なおかつ人里離れたところじゃないと、野外のイベントってできないですよね。ほとんどはもう騒音問題で。


[江良]

そうですよね。


[坂口]

うん。苦情で大変。なんだけど、たまたま鹿児島のそこの山の中の、当時の廃校になってた場所は、学校なのに周りに人里があんまりないっていう条件だったんで、だけど学校だったから、電気も水道も


[江良]

道もある。


[坂口]

道もあって、っていうところだったんで、そういうのができた。


[江良]

でも、あとあれですよね、やっぱり。そこでやってお客さんが来るのかみたいな、そういう心配とかも、最初ありました?


[坂口]

いや、もう当然あって。だけど、東京で、フジロックのお客さんってほとんど首都圏から来るんで、


[江良]

まあそうですね、確かに。


[坂口]

だけど、首都圏から苗場まで行くのに、まあ渋滞もあったりするから、3、4時間は平気でかかるわけです。だけど、僕がここならできるかもと思った森の学校って、鹿児島市内からだったら、1時間ぐらいなんですよ。1時間弱、ちょっと弱ぐらいかなって。それで、そこももう大自然の中でできる。これは、地方都市のものすごいアドバンテージだなと思ったんですよ。首都圏だったら、首都圏抜けるだけでも、1時間以上かかる。そっからまた、人里離れたところまで行くのに3、4時間っていうのが当たり前だけど、全然、行って帰って。


[江良]

まあ、1時間なら気軽にね。


[坂口]

そう。


[江良]

気軽に行って、まあ日帰りも全然できる。日帰りも、もちろんできちゃう。


[坂口]

うん。それで、今の地方都市でも、物流っていうのは日本はもう世界一の物流があるんで、物も人も情報も大体あるじゃないですか。だけど、体験だけがないんですよね。本当の体験、ライブの体験っていうのはない。けど、それ以外はあるんだったら、都市生活を営みながら、日帰りでバックカントリーまで行けるみたいな世界なんで。これは、地方都市のものすごいアドバンテージだと思うと。だから、全然これやれるんじゃないって。だけど、それは都会の感覚。都会の感覚というより、都会に長く暮らした自分の感覚で。鹿児島の地元の人は15年前は、基本的にはみんな都会の方を見てるから、鹿児島から。地方都市からもっと、さらに福岡とか大阪とか東京の方を見てるんで、都市より下、下という言い方は良く無いけど、地方には行かないっていう。


[江良]

そうですよね。なんかそこの魅力を感じないというか。


[坂口]

そう感じない。


[江良]

プライオリティが、プライオリティが低いというよりも、やっぱあんま感じてないっていうことですよね。自分たちのその優位性を。


[坂口]

うん。とはすごく言われたけど、自分の感覚としては、いやこの楽しさというか、こんなに短時間で日帰りで大自然の中に行けるみたいなのって、それが鹿児島に限らず、地方都市どこでもそうだと思うんですけど、こんなアドバンテージないから、この楽しさをみんなもっと知った方がいいなと思ってたんで。


[江良]

なるほど。じゃあ結構最初からターゲットはどちらかっていうと鹿児島市民を見てたんですか。


[坂口]

うん、そう。


[江良]

これでも実際1回目やってみて、そのお客さんって、やっぱ鹿児島から来てもらった。


[坂口]

鹿児島市内から来た人がほとんど。


[江良]

ほとんどだった。


[坂口]

地元の川辺町っていうところなんですけど、川辺町から来た人は誰もいなかったと思う。


[江良]

うんうん。でも市から呼んだ、鹿児島市から。


[坂口]

そう。要は都市部から。


[江良]

都市部から。


[坂口]

で、都市部から呼んでいたら、それがすごく楽しいよってことになって、2年目、3年目、4年目、5年目ってずっと結局15年続くんだけど、本当に関東、関西、福岡、他の都市部から来る人がほとんど。



[江良]

なんか、そうだね、僕もなんかイメージとしては、なんか僕たち、東京の人たちが、なんか、この日あるからってみんな大挙して。


[坂口]

そうそう。


[江良]

大挙してね。


[中馬]

多分、坂口さんはご存知ないかもしれないですけど、ある日、例えば金曜日の朝の鹿児島行きの飛行機、めっちゃ知ってる人がいっぱいいる笑。


[坂口]

いるよね。


[中馬]

そうでしたね。毎年それはもう、本当そうで。すごい記憶に残ってますね。


[坂口]

そうそうそうそう。


[江良]

でも逆に、その鹿児島の人たちは、もうなんだ、その1回目でそれだけ集まって楽しいって分かったから、なんかそういう運営とか出展とか。そういう、なんかこう、やっぱり、でもなんか地域が、前向きになんかこう、集まって、みんなで楽しくやってこうよっていう、なんかそこが多分、まあ今でいうと、結構そういう話って、それやろうとしてる人いっぱいいるけども、やっぱ15年前にそれを、なんかやろうとしてたのが新しかったし、あとまあ実際それがなんかこう、目に見えたというか。それがなんか、僕たち的には、魅力的に、なんかね、こう、やっぱそこは行かないとっていうことでしたよね。


[坂口]

そう。だから、最初に鹿児島にいた、そこで知り合った友達とか友人たち、それから自分の同級生とかね、高校生とかの時の、いろいろ話してもみんなピンとこないんですよね。


[江良]

そうですよね。


[坂口]

で、例えばフジロックとか遠い、フジロックのことは知ってても、野外フェスティバルっていうのは知ってても、行ったことないしね。だから、言葉でいくら説明してもダメだし、企画書みたいなの書いたって伝わんないし。だからもう、とにかくやってみる。で、やってみたら、行ってみたら、楽しかったっていう、同じ共有体験をしたっていうのはすごく大きくて。だから、1回目に来た人たちが結局最後まで関わってくれたっていう。15年で最後に、最終回にしたんだけど、っていうのは本当に大きかったですね。


[江良]

でもその楽しい、なんていうんですか、1回目共有できた人がいいとして、でもその1回目まず何もよく分かんない人を。1回目どれぐらいだったんですか、お客さんは。


[坂口]

300人くらいじゃないかな。


[江良]

その300人をもう、とにかく。


[坂口]

もうかき集めて。


[江良]

かき集めて。もう、とにかく来て、みたいな。


[坂口]

そうそう。で、まあ、なんか、Double Famousで何回か鹿児島でライブやったりしてたんで、そこに来てた人、初回は。もう、収支なんて計算できないから、自分のバンドで、ギャラが出るかどうか分かんないけど、まあ、旅費は何とかするから、みんな来てよって自分のバンドを説得して。で、Double Famousで何回かライブはやってて、結構、毎回来てくれる人たちもいたから、そういう人たち中心に声をかけて。うん。そういう人たち中心に声をかけて。うん。そういう人たち中心に声をかけて。あとは、しょうぶ学園の楽団がすごく面白かったんで、彼らに初回から出てもらったけど。しょうぶ学園の楽団なんて、誰も見たことないんで、当時。まあ、障害者の何かとDouble Famousが一緒にやるらしいみたいな、多分そんな程度だったんじゃないかな。それが、でもなんかすごい山の中でやる、森の中の廃校があって、森の学校のことも知らない人いっぱいいたんで。


[江良]

初回はやっぱりステージが結構作りどころだったんですか?


[坂口]

もう人を呼べるコンテンツはそれぐらいしかない。


[江良]

それしかなかった。じゃあそのプレイスメイキングが、バチッとはまって、1回目。


[坂口]

1回目はみんな未経験だったからがゆえのインパクトは相当あったと思うんですよね。やってみたら、あ、野外で音楽聴いて、で、おいしいものがあって、ワークショップもあったりして、もの作りもあったりして、こんな楽しいんだっていう風に、多分思ったんじゃないかなって。


[江良]

そこが結構明確に伝わって、そこがコアの何か。


[坂口]

だから二回目からはもう、来る人も倍増、倍倍倍で来る。


[江良]

倍倍倍で。


[坂口]

口コミで。


[江良]

口コミで行こうよ、楽しいから行こうよってことですね。


[坂口]

そうそうそう。


[江良]

一回目終わり、二回、三回と倍増、倍増になってくる。でも今、坂口さんは、もう今、こちらに住まれてると思うんですけど、一回目、二回目、三回目、四回目行った時は、二拠点みたいな感じだったんですか?


[坂口]

うん。もうずっと二拠点です。だから、家は関東の方にあって、最初は世田谷にいたけど、途中から神奈川の方に移ってる。


[江良]

やっぱり東京余白がないから、そういうUNiTでの場作りみたいなとこから、次はなんかこう、地域で、しかもやっぱり自分の、歴史的なコンテクストで鹿児島なんだけど、そうやって具体的に仕事で行き来をするようになってて、何かこう、自分のこう、ライフスタイルというか、暮らしというか、何かこう、どういう気づきとか。大学からずっと東京にいる中でどういう自分の変化とかありました、そこで?


[坂口]

圧倒的に大きかったのはグランディングしている感覚。


[江良]

グランディング。


[坂口]

地に足がついている、Down to Earthの感覚っていうか。というのが2010年に、2008年にリーマンショックだったじゃないですか。全く自分と関係ない金融、ニューヨークのウォール街になんて全く関係ないと思うんですよ。名前は知ってたけど、映画とかもあったし。だけどそこで何か破綻が起きたことで、自分の生活とか自分の活動にこんな影響があるんだって思ったのが一つ。で、これ都市生活をしている、都市だけで依存して生活していると、何かのシステムに依存しているんだってすごい思ったんですよね。それで、じゃあって、自分のルーツをもう一回掘り起こしてみようかなと思って、衝動的に始めたのが2010年のGOOD NEIGHBORS JAMBOREEだったんですけど、2011年、東日本で震災が起きるじゃないですか。


[江良]

そうですね。


[坂口]

だからもう都市機能が完全に麻痺したでしょう。で、コンビニで物が買えないとか、ガソリンが入れられないとか、その時古いボルボ乗ってたんで、車で外出なんてできないんですよ。ガソリンも制限とかになってったし。そういう大きいシステムの中の何かがちょっとでも転ぶと、もう完全にもう影響を受けて自分のやりたいことがにっちもさっちもいかなくなってしまうっていう経験をしたので。だけど2010年に鹿児島の山の中でやっていたら、そこで出会った人たちっていうのは、例えば陶芸をやっていたり、農業をやっていたり。陶芸なんて、焼き物の窯なんて都会の真ん中で焼き物なんて焼けないから、だいたい郊外とか地方にいるじゃないですか。で、スペースがあるっていうことは人に自由をもたらすし、高層ビルの中に行ったら地震が起きたらもうにっちもさっちも行かなくなるわけでしょう。だけど地面に足をつけていればなんとかなるっていう感覚があって、で2010年にそういう人たちと一緒にプロジェクトを立ち上げていたんで、2011年のあの震災があって東京は大変な状況だったし、都会は大変だったけど2011年もジャンボリーができたんですよね。それはもう鹿児島のそういう仲間ができていたからで、これはかなり大きいなと思って。だけど、だからといって完全に田舎の方に移住しようと思わなかった。うん。自分は都会でネットワークがあって、都市でネットワークがあって、そういう都市生活の感覚があるから、田舎暮らししたいわけじゃなくて。今でも全然田舎暮らししてることも思ってないし、そういうことじゃないなって。だけど地に足をつけていたい。それを両立できるのは二拠点で行ったり来たりできる環境を作っておくことだと思って。


[江良]

逆に都市側のなんていうのかな、田舎暮らしじゃないっていうことで言うと、都市側の魅力っていうのは坂口さんにとってはなんなんですか。


[坂口]

それはもうトラフィックがあることです。トラフィックがあるというのは、いろんな人が行き来する空間であるっていう、都市っていうのは。で、タウン&カントリーっていう、カントリーサイドっていうのは地に足をついているけれど、交流があんまりない。交流ないけど刺激がない分、安定している。刺激があるものすごい刺激的だけど不安定であるっていう。


[江良]

何かに依存したりとか。


[坂口]

何かに。交通システムに依存しないと、だって震災の時にコンビニとか物流が止まったら全く何も手に入らなかったじゃないですか。ガソリンから食料から何から。それって食料自給率は東京で言うと1%しかない、人口に対して。でも鹿児島に来ると90%以上あって、もうそれは子供の頃の記憶でタケノコとか買ったことなかったんですよね。


[江良]

タケノコ。


[坂口]

うん、基本的に5月6月になると、もう死ぬほど貰うわけ。それでもう延々皮むかされて嫌だったなと思って。昔は嫌だった、それって。何か都会だったらもっと何かスマートに皮むいたものが出てくるのに笑。



[江良]

なるほどね、アクも抜いてね。


[坂口]

そう自分でやるのかよみたいな、思ってたけど、それがどれくらい豊かなことであり、良かったか。だけどじゃあ何でじゃあそこから出ていったのってなったら、なんかもう思春期の頃ね、自分からすると、近所の石ころも話しかけてくるような感じがしてたわけ。


[江良]

え、どういうことですか。


[坂口]

なんかもうどこに行っても「坂口さんとこの修ちゃんはどこそこで見かけたよ」みたいな報告がSNSなんてないのにうちの親も知ってるの笑


[江良]

まあ、ちょっとこういう言い方は失礼かもわからないけどムラ社会的な。


[坂口]

うん、ムラ社会。なんか可愛い女の子と歩いてたよみたいな笑


[江良]

なぜかみんな知ってるってやつですね。


[坂口]

そうそう。それがすごく閉塞感があって、息苦しくて、風通しが悪いと思ってたから、出ていったんですよね。で、ほとんどの地方出身者は大体そんな感じだと思うんです。


[江良]

うん、みんなそうだって言いますよね、やっぱりね。


[坂口]

そんな感じだと思う。だけど今度は都会に出て行ってみれば、そういうものからは完全に自由になったけれど、今度はもっと大きなシステムに依存しないと。だから自由だと思ってたのは、思い込んでただけで、全く自由じゃないじゃんって。


[江良]

多分顔も見えるような相互互助のムラシステムに依存してるからそうなったんだって。でも今なんかそうですよね。僕たち携帯で何をどうして何に時間使ってるかみたいなビッグデータつうか、プラットフォーマーが持ってるから。そこにAIつながってるから、個人みたいなものが動きやすい。


[坂口]

そう、だからどこまでいってもシステムから逃れることはできないんだけれど、だけど田舎であれば、田舎というか地方であれば、地に足がついてる分、そのシステムに介在しなくても、例えば今僕らが今話してるここでいうと、目の前に海があって、頑張れば、魚だっていくらぐらいだって釣れる。タンパク質はとれる。土地はあるんで、今も目の前で採ってきたハーブなんかで一緒に食べてますけど、いくらでも食料を作れる。そうすると、オフグリッドというか、システムからちょっと距離を置いても、なんとか生きていけるでしょ。でも都会だと全くできないじゃないですか、それは。

[江良]

まあ、無理ですね、はい。


[坂口]

それはもう完全に無理。その生き苦しさも同時にもう一回感じるようになって。だから両方、どうやっても生き苦しいんだけども、であれば行ったり来たりすることで、もう一つのオルタナティブな生き方ができる。


[江良]

ちなみに今は、こちら鹿児島にいて、そういうムラ社会的な、なんか監視されているというか、そういうような生き苦しさって感じられますか?


[坂口]

無くはないけれど、僕の場合は常に二拠点を維持しているので、行ったり来たりしているから、「あの人、いつの間にかどこかに行くよ」みたいな。


[江良]

そういうキャラとして。ふらふらしているみたいな。


[坂口]

キャラを確立している笑。


[江良]

でも、年をとって、仕事も含めて、ご家族も含めて何か確立すると、よりそこからは離れられるのかなというのは、なんか思いますよね。


[坂口]

でもみんながこうすればいいとは全然思わなくて、ムーミンの中に出てくるスナフキンみたいな存在笑。


[江良]

よくも悪くも。


[坂口]

ムーミン谷の住人はずっとあそこにいるんだけども、だけどスナフキンは時々やってきてポロンポロンとギター弾いたりいたりして、どこか行って、またしばらくして帰ってきて、これって宮本恒一っていう民俗学者がいて、僕すごい大好きで本もよく読むんですけど、彼が昔はそういう人たちって結構世の中に必要とされていたと。彼の言葉で言うと世間師って言うんですよね。


[江良]

世間師。


[坂口]

世間の世に、間の世間に、師匠の師。世間師と呼ばれる人たちは、昔の山伏とか、あと富山の薬売りとかね、ああいう感じの人たち。旅をしながら定期的に帰ってくる、そこの場所に。なんだけど、でも居つくことはなくて、またどこかに出て行って、あっちの町ではこうだった、こっちの谷ではこうだったっていうその情報を仕入れて村に伝える人たちで、自分はそれだなと思うんですよね。それが性に合ってるし、あっちこっち行って帰ってきて、あっちはこうだったよこうだったよ、こんな面白いことがあったから、こういう風にやったらいいんじゃないっていうようなことを伝える。それが昔は、昔って僕以前というか、東京からそういうのを発信してくるだけだった。だから地方は東京の真似をするというか、東京になりたい、東京のように都市化していきたい。で中央集権が日本全体でも東京首都圏に集中してるし、鹿児島でも鹿児島県の160万人いる中で、60万人くらいが首都圏鹿児島市に集中してる。だから地方からより少し都市へ、より少し都市からさらに福岡とかの中核都市からまた都市へ、で東京へ、っていう流れがずっと続いてきてるけど、要は情報の流れが一方通行だった。そういう風に国を作ってきたと思うんですけど、だけどそれ以前の幕藩体制の頃っていうのは、それぞれが国だったから、あっちこっちを越境して渡っていく人がいろんな情報を伝えて、いろんな勘違いもあると思うけど、現地化して、ガラパゴス化したり現地化して、その地域特有の、でも何か学んではいる。あっちの町はこうだった、あっちの国はこうだった。なんかね、そういう役割の人がいてもいいんだろうなと思って、自分はそういうもんだろうなと思ってる。


[江良]

でもちょっと世間師として、スナフキン的にムラ社会からはちょっとこう


[坂口]

距離を置いて。


[江良]

ポジションをちゃんと自分で確保できて、となっても、やっぱり都市っていうものに、トラフィックが多くて、紛れる、システムには繋がれるけど、都市は世間師となった坂口さんにとってはどういう魅力がとか役割というかな、やっぱり都市は必要なんですか。


[坂口]

絶対必要です。絶対必要なところ。


[江良]

何がこう、何がないと困るんですか、坂口さんは。


[坂口]

だからやっぱり、トラフィックがあって、いろんな人と出会えるってことが必要だし、そこで得られる情報、結局今インターネットだなんだかんだ、SNSだなんだかんだ言っても、所詮はあんなものに二次情報でしか過ぎなくて、誰かがどっかで見てきていたものを拡散してるだけでしょ。


[江良]

そうですね。


[坂口]

そんな情報何の価値もないんですよ。だからGoogleなんて、タダじゃないですから、検索して出てくるものってあれ二次情報、三次情報、四次情報だから、実際に自分が足を使って見てきたものとか、人に会って感じたものとか、その情報の重さには絶対にかまわないっていうか。だからそういう意味で言うと、地方にいるのは地に足がついて、魚を釣ったらヌルヌルするとか、地方で広々した土地にいるとイノシシが出るとか、


[江良]

自然に何かまつわる一次情報はたくさんある。


[坂口]

一次情報。太陽が水平線に落ちるときは夏は水蒸気で見えないけど、冬の方がきれいだとか、そういう情報ってそこの場所に行って、自分が寒さに耐えながらとか、得てきたものじゃないと得られない情報。都市でしか得られない情報っていうのは、いろんな人のコスモポリタンな人の流れの中で、その人から直接出会って得る感覚であるとか、その人から伝えてもらうことであるとか、その人と一緒にいることで生まれるものであるとか。それはもう一次、一次以前の情報。それをいくらSNSに載せて拡散しようと、それを見て分かった気になろうと、そんなものは価値はないんですよね。


[江良]

感じられないみたいなことですね。


[坂口]

感じられないし、それで今みんなほらもうすごく二次情報を偉そうに拡散するじゃないですか。だけどあんなのだって何の意味もない。だって自分が見たわけでもないものを、リツイートとかしたって。


[江良]

まあそれは価値がない、その行為にあまり価値はない。


[坂口]

だから都市でしか得られない一次情報もあるし、地域でしか地方でしか得られない一次情報もあるし、その両方をちゃんと自分の感覚の中で持てるかどうかが説得力につながるから、田舎だけ、地方だけでは得られないものって都市には確実にであるので、その両方を行ったり来たりできるのがいいと思うし、今交通インフラがすごく発達したから安く行けるじゃないですか、LCCでも。


[中馬]

そうですね。どこでも行けますよね、安く。


[坂口]

だから一次情報を得る機会はものすごく増えているというのにも関わらず、実際そうやって人も移動してると思うけど、それをただ拡散してるだけだったら意味がない。いいだけど都市には都市の一次情報があるし、地域の地域の一次情報があるから。


[江良]

そうですね。じゃあ、そのスナフキンと言いつつ、とはいえなんかこう15年やられて、で、もちろん坂口さんだけじゃなく、いろいろなそこの関わる何かみたいなことも含めてですけど、さっき15年前は鹿児島の市内の人たちは別にその地域を見ずに、福岡見て東京見て、もっとこうねグローバルの何かを見てたところが「15年前は見てた」って言ったのは、多分ちょっと反対で言うと、今は結構もう少し地に足ついたみたいな感覚を、坂口さんがというよりも、地域ごととして、みんなそういう感覚が育ってきたみたいなニュアンスを感じたんですけども、そこら辺がどうかということと、あとその、なんていうの、地域づくりとかそういうことってなんだろう、どこでも今となっては当然みんなやってることなんだけど、うまくいってる例、うまくいってない例、とかうまくいってるように見えて全然違うんじゃないそれ、とか、いろいろあると思うんですよね。そういう意味だとその地域を育てていくというか、育てるというのもちょっと言葉がちょっと違うかもしれないですけど、地域が何かそういう形に変化していくっていうのって、どういうことが大切だったんだろうか、みたいなことを今振り返ると坂口さんはどう思われるかっていうのをちょっと教えてもらってもいいですか。


[坂口]

自分のことで言うと、15年って結構やっぱ長い年月だったんですよね。だから15年経つと始めたときに生まれた子どもはもう一人暮らしするような感じになっているでしょ。でちょうど僕らがGOOD NEIGHBORS JAMBOREE始めたときに小学生だった子なんて、今うちの会社で働いてますからね。


[江良]

おー。


[坂口]

だからそういう意味だと、15年で日本全体とか当然そのふうに思わないけれど、意識は変わったと思う。東京しかないと思っていた、30年前の高校生だった僕は。だけど30年、もっと前か。だけど自分の意識も変わったし、今若い子たちの中では東京しかないみたいな意識はあんまりないと思うんですよね。東京もニューヨークもロンドンもフラットだ、っていう感じ、鹿児島も。っていう感覚はすごくあるし、それは変わったなと思う。でもう一個は何でしたっけ。


[江良]

それがどういうふうな、こういうことがあったから、みんなそういうことになってこれたのかな、みたいなことを坂口さん目線で言うと、どういうことがそれを成功と言うならば、僕はそれはすごい成功だというか、すごい学びたいなと思うとすると、どういうところに結構ポイントがあったのかなって、15年前から振り返ってみると。


[坂口]

マインド的には地方だからダメだとか、東京の方が偉いとかっていうのはだいぶ薄まってきたなと思っていいんだけど、もう一つ困るのは経済がまだついてきてないところですよね。人口が減ってるし、過疎化が進んでいるがゆえに、それで東京の人口だけは増えているんで、もうそれでも世界的にそうなんで。イギリスでもアメリカでも全部都市化をしているのがそうなんで、で、地方に魅力を感じている若者もいる魅力を感じている、僕らみたいな二拠点だったり多拠点だったりっていう人もいるけど、地方だけで経済が成り立たないっていう。やっぱりこれはもうシビアな話、金があるところに才能が集まるんで、そこの問題は解決してないと思うんですよね。で東日本の震災の後に、東北にものすごい優秀な人材がいっぱい集まったのはお金が集まったからだと思うんですよね。90年代に音楽業界がものすごく盛んになったのは、音楽業界にお金があったからなんですよね。今それは地方では解消できてない。やっぱり東京の仕事をリモートでできるようになったっていうことは地方の仕事でお金稼いでなくて、都会の仕事を場所がどこでも良くなったっていう。


[江良]

こっちでやれるようになったっていう。


[坂口]

そうそうそう。まだそこは過渡期だなと思っていて、そこが最大の課題なんだけど、ビジネスということで考えると、最初の頃にミュージシャンで収入は変動なのに生活費は固定であるっていう固定費と変動費ってあるじゃないですか。固定費は圧倒的に安いんですよね。


[江良]

うんうんうん。


[坂口]

低い。生活コストが低い、でありながら食材とかのクオリティは圧倒的に高い。で、空間のクオリティも高い。クオリティっていうのはどんな意味で使うかっていうことなんだけど、広々してるっていう意味ではパーソナルスペースを豊かに取れるっていう意味では地方って圧倒的に豊かで固定費は低い。けどインカムが追いつかない。都会に依存するしかないっていう感じなので、それはそれでいいんじゃないかっていう考え方もあると思うし、リモートでできるようになったんだから、デザイナーとか例えばクラフトマンとかはマーケットは都会に、暮らしは地方に、っていう、そういう人たちは今地方でうまくやれてる。だけど地方のマーケットで地方で暮らすっていうと、まだそこは。要はそれって地方の経済圏だけで自立できてるかっていう話なんで。


[江良]

それはお金を否定する何かがない限りは難しいですよね。でもごめんなさい、ちょっと繰り返しになっちゃうんですけど、だいぶ中央、文化的にね、お金的には当然中央とか世界とのつながりの中で、ある一定の所得というかを持ってくる何かつながりシステムは必要なんですけど、ただ文化的にというか、これ今広く言うと結構SNSとかも発達してこれが、音楽で言えば100万枚売れるシーンなんてもうないし、趣味が多様化してきたみたいなところもあるけども、あんまり東京を向かずに、地域での何かこう文化的な楽しみとかを、でもいいじゃないここで楽しければ、お金が回ればいいじゃんみたいな、そこはもう大分そうなってきたっていうことは、何か鹿児島ではきっかけがあったんですかね。それはやっぱりGOOD NEIGHBORS JAMBOREEとかがそこで役割を果たしたのかとか、イベントが良かったのかとか、イベントをやることで、でもね都会からあんなにわんさかわんさか人来るから、そういうことが自分たちの、地域の何かこう気づきになったのかとか。逆にでも、なんかもうそこに集まってる人たちがこれ楽しいねみたいな、単純に別にでもそういう楽しさって多分こう少なくとも一回東京出たことがある人なら東京にはなんかすごいない種類の楽しみだと思うから、そういうことだったのか、とか。なんかそこのこう、なんだろうね、ここでまずそのお金とかそこはちょっとそこはともかく「ここでいいじゃん」みたいなことって、どういう風に生まれうるのかっていうのが。そこをもうちょっと聞かせてもらっていいですか。


[坂口]

なんか天才バカボンみたいな話で「これでいいのだ」っていう笑。


[江良]

「これでいいのだ」っていうのは、なんかでも誰か最初に坂口さんみたいなスナフキンが「これでいいのだ」って言って。まあでも確かにそうですよね。1回目から「これでいいのだ」ってことでやって、300人が「これでいいのだ」って言って、これでいいんだよーって言ってやったら、声かけてやったら300人、600人、1,200人になってくれたから


[坂口]

2,000人とか。


[江良]

まあでも、やっぱ共有体験ってさっきおっしゃってましたけど、そこがやっぱりでかいんですかね、「これでいいのだ」の共有。


[坂口]

共有体験とやっぱり外部評価。


[江良]

外部評価。でもそうだよね、自分たちが憧れてたっていう言葉がいいかわからないけど、東京がいいと思ってた、キラキラしてる東京の人たちが、このイベント最高だねえって言ってくれたし、まあいろいろ媒体とか出るとか、「あ、いいんだね、やっぱり」みたいな、「本当これでいいのだ」みたいな笑。


[坂口]

だから、外部の人がすごくそれを褒めたっていう、でそれは中の人の意識を相当変えたってことですよね。


[江良]

それはなんか実感としてはなんか媒体ですか。それとももう来る人がもうどんどん増えてってことですか。


[坂口]

それはもう来る人。まあ媒体は後の話で、リアルに東京の人が、いやこれ最高じゃない、この環境、

 

[江良]

しかも相当感度の高い人たちがなんていう。


[坂口]

インフルエンス。


[江良]

そうね普通って言ったらあれだけど、一般の人たちが行ったいうよりも、感度の高い人たちが、今でいうインフルエンサーですね、もう完全にインフルエンサーたちがこう大挙してきてたというか、そういう感じでしたね。


[坂口]

そうそう、当時はまだそこまでSNSはなかったからあれだけど、要はオピニオンリーダーって言うか、インフルエンサーっていうよりも。オピニオンを作れるような人たちが「いや、これがいいよね」っていう。これは東京にはないし、鹿児島でしかありえないっていう、こんなことあるっていうことを地元の人が目の当たりにしたっていうか、直接その人たちから聞いたというよりも、その人たとの表情とか、その人たちの行動とか、それを共有したっていうことが大きいってことですよね。


[江良]

なるほどですね。でも例えばまあわかんない、何とか県の何とか市の人たちが、まあ仮にこれ聞いてらっしゃるとして、どうやってオピニオンリーダー呼べばいいんですか、みたいなのっていうのは、でもまあでもやっぱりその坂口さんがその東京のクラブで感じた何かみたいなことをみたいなことを形にして、そこのコンセプトというか、そこがやっぱり新しかったというか、やっぱりその時なかったからなんですかね。なんでだと思いますか。あれだけこうなんかこう、なんかわちゃわちゃしてたんですね。東京でもねなんか今年行くのみたいな、君も行くのみたいな、あの感じっていうのはどうやったら起きたんですかね。


[坂口]

それはね、僕は何て言うんだろうな、俗人的に自分だからできたとはあんま思ってなくて、だけど自分がなぜできたか、できたかどうかはちょっと置いておいたとしても、そういう結果が生まれたかっていうと、玉ねぎの皮をむくように、玉ねぎがゴロゴロ並んでる中で自分だけが丹念に玉ねぎの皮をむいたような感覚があって、それは何でかというと、自分がなぜこの玉ねぎという形をして、今はこういう形をしてるけど、なぜこういう形になったのかって皮を一枚一枚むきながら、ずっと問い詰めたと、自分をね。そしたらなんで自分がトランペットをやり続けたのか、なんで始めたのか、なぜこういうことになったのか、で子供の頃なんで無意識なんで、でもあの時なんでかっこいいと思ったのか、そしたら他の県のことを見るとどの小学校にも吹奏楽団があるなっていう県、あんまないんですよ。それは歴史的に紐解くと鹿児島の人が最初に軍楽隊だったけど、そういう人たちがいて、その歴史が脈々と実はあるんだっていうことが見えてくる、とか。だから自分はこうことやってるんだ、でどうなんだっていうことを、ずっと玉ねぎの皮むきをしたってことだと思うんですよね。そうすると表面上は全部同じ玉ねぎに見えるけど、コアの部分、一番柔らかいコアの部分っていうのは自分にしかないものだったりするし、そこを掘り当てたというか。でもそれはどの地方でもみんなあるはずなんですよ、絶対に。


[江良]

人が、違う人である以上。


[坂口]

違う、そう、同じ人いないわけだから。同じ人はいないんだけど


[江良]

同じ風土もないし。


[坂口]

だからそこを深く深く掘っていくというか。もっと違う言い方をすると、自分の地下に、無意識の地下の方に潜っていくというか。潜っていった先に流れてる水っていうのは、他の地下水脈と繋がってたりする。


[江良]

それは本当、そうですよね。


[坂口]

だから村上春樹さんが羊男とか何とかいろいろ書いてある。あれ何なんですかって言ったら自分でもよくわかんない。わかんないけどなんか思いついて、ずっとそのことを考え続けていくと地下2階3階に降りていくとそこに川が流れていると。そこの川の水をすくって登ってこれた人が小説家で、みたいな話をしたことがあって。普通の人はそこまで降りてもいかない、考えもしない。


[江良]

そういうのって本当にそこに流れてる川は実はすごい普遍的な感覚だったりするわけですよね。だから村上春樹さんの小説とかね、あれ、これ自分もこれこのシーンでちょっと感じたことがあるとかね。坂口さんの場合もやっぱりそれは、本当に探求者というか、巡礼者というか、何ていうのなんか、でもそういう。でもやっぱり日々の川を。いやでもそれはなんかもっとなんか、何ていうのやっぱり坂口さんって、ごめんなさい、おしゃれイメージあるから笑。僕が今回初めてちゃんとお話を伺って、僕の大きな誤解だということが今ここに判明したということですよね。


[坂口]

村上春樹もおしゃれだけの表層的な小説家じゃないかとずっと言われてたけど、まあ別に自分がそんな存在だとは思わないけど、だけど、やっぱりどっかのタイミングで自分が何で今ここにいるのか、なんで直感的にこんなことをしてしまうのか、衝動的にこういうことをしてしまうのかっていうのを一生懸命考えると、それをずっと考え続けるってことだと思うんですよね。だって僕なんで鹿児島でってやっぱり当時思ったし、自分でも。それで去年ジャンボリー辞めたんですけど、なんで辞めたのとか自分で思うんですよ。だけど直感的にもうこの表現方法じゃないと思って、ちょっと次のことをしたいっていうのが感覚的にあって、でもなんで自分はそう思うんだろう、ずっとやっぱり考える。


[江良]

じゃあ先に直感というか、感覚が先にあって、その感覚もまあ、その感覚を追っていくっていうのは結構確かに皮をめくっていくっていうのと結構多分感覚的にそういうそういうことなんでしょうね、なるほどね。


[坂口]

でもそうしたら、そこにあった一番柔らかくて美味しい部分みたいなものっていうのは、みんな美味しいと思うじゃないですか。皮のままは食べてないけど、一番柔らかい、一番美味しいところって、いうのは、みんなを、みんなとは言わないけど、美味しいと思える人がたくさんいるいるって言うね、それを地下水脈で繋がってる人と同じような話で、そこまで直感を信じて降りていくっていうことが、皮を剥き続けるみたいなことが、それは誰にだってできるはずで、みんなそういうものがあるはずで、ルーツを探るでもいいし。それは自分探してとか、そういうような話じゃなくて、うん。そういう言葉に収斂したくはないいんですけど。


[江良]

でもその15年経って、今ね、辞められるわけですけども、あれだけのイベントを。それはでもなんかこの表現違うなと思って、でもこう皮をめくってったら、どういうところに辿り着いて、実際にやめられることになったんですか。


[坂口]

だから15年って言うと人が本当に成人していくような。


[江良]

そうね、だって社員に1回目小学生だった人がスタッフで入ってくるぐらいの時間軸ですよね。


[坂口]

そうなっていった時に、同じことやり続けられないなってふうに思うようになって、自分の表現として。それを受け継いで誰かやってくださいっていうやり方をみんなすると思うんだけど、企業であればM&Aみたいなのもすると思うけど、それって受け継いだ方もハッピーなのかなって。ノウハウは教えられるけどコンセプトとかコアな思いみたいなものは受け継ぐことはできないんで、共感をしてもらったとしても。だって共感してもらったら違う形でやればいいよっていう。


[江良]

今の坂口さんのあれで言うと、その人の玉ねぎの皮をむいて、受け継ぐことがっていうことにたどり着いてって、いうんだったら多分いいんだけど、俺続けたいからっていうことが理由で誰かに渡すっていうのは多分本末転倒なことになっちゃうんだよね。


[坂口]

こっちのエゴみたいなことになっちゃうから。なんかそのことによって、なんか大御所みたいな。


[江良]

家元みたいな。

 

[坂口]

地方の名士みたいになりたいわけでもないし。そんなのは重たくて自分でも嫌だし、もっと軽やかに生きたい。年齢も年齢、老眼にもなってきたとか、年をとってきたとか、体もそんなに昔ほど、ジャンボリーをね、一回やるとね、1日に2万歩から3万歩歩くんですよ。2万歩以上、3万歩以下。


[江良]

やばいですね。


[坂口]

やばいでしょ。


[江良]

やばいですね。


[坂口]

もうそんなに歩き続けられなくなってくるから、そうすると違う表現の仕方をしないと。


[江良]

まあでもその意味で言うとやっぱり新しい場を作るっていう、そこのクリエーションに対する何かこうワクワク感というか、それはものすごくやっぱりあるから、そこの限界みたいなものはすごい一つあったわけですね。なるほど。でもそうなってきた時に次のっていうことでこの家とか、なんかいろんなものが。その時はでもまあまあなんかね、多分そのなんだ会社も勝手に辞めちゃったりとか、奥さんにも相談せずに、だから思い立ったらパッてやっちゃうという感じであると思うんですけど、まあまあいいや、とりあえずその


[中馬]

えらい言われようですね。


[江良]

GOOD NEIGHBORS JAMBOREEが終わると、その次、その時にあったかどうかはちょっとおいといたとしても、次の何か今のこう場のクリエーションみたいなところで言うと今はどういう、それは今なのか、もう一つ前に何かあるのかも含めてですけど、何がこう見えてらっしゃるんですか。


[坂口]

今この話をしてる家っていうか土地は、2,000坪あるんですよね。でジャンボリーやってた森の学校って敷地3,000坪。途中で周りの森を地元の人たちと一緒に買い足して広げたので1,500坪プラスしたから4,500坪。でこれぐらいの場所があるといろんなことできるんですよね。都会で2000坪を確保するのって無理でしょ。

[江良]

無理ですね。


[坂口]

うん、だけどそれはこの地域だからできる。で、2,000坪あったらじゃあ次何しようってことになるんだけど、まあジャンボリーの時は4,500坪とかのところに、数千人の人集めて、一気に集めてっていうこう爆発力みたいなのをやったけど、まあ年も自分も50を超えてくると爆発力というよりは持続力みたいな感じになってくるので、そうすると2,000坪でその1日で数千人集めるんじゃなくて、年間通して少しずつ今日みたいに2人来てくれる、5人来てくれる、何人来てくれるっていう感じで、ずっとこうランニングしていくような感じでビレッジを作りたいなっていう感じ、なんですよね。そこには自分がいなくても、形を作っておけばそこに訪れた人が何かを感じて帰って行けるような、で都会では絶対にありえない空間を作るっていうのは、もうここは本当に目の前に砂丘しかなくて、海ガメが産卵しに来るような場所で、だけど鹿児島という中核市から30分で来れて。周りは過疎地域だけど、過疎地だからこそやれることがあるっていう次の可能性を感じて、ここに今日来て、うわっ、これは面白いって言ってくれる、面白いっていってもまだ何にもないじゃないですか。でも、それが面白いと言ってくれる人たちと一緒に何か次の空間を作る。


[江良]

ちなみに、それは、フジロックは何年でしたっけ?2011年のフジロックで、あ、ごめんなさい、2001年で、PAを通じて伝わったと、自分のトランペットがね。それが、その時の何か感覚と、その時のお客さんとの感覚と、僕たちが今日来て、ちなみに、もうはっきり言うと、ここたどり着いたのは本当にすごい体験なんです、これは。なかなか伝えられないんですよ。僕たちは、本当に何だろうね。本当に特別な時間を、共有できたという感覚って、そこに対する、坂口さんのモチベーションって、フジロックの時のその時の経験と、今のモチベーションって、何か差がありますか?


[坂口]

まあ、あれは若かったから、やっぱり。その自分の力が拡張する快感というか、感覚っていうのがあったけれども、今は自分の力が拡張したというよりも、ま、見つけたのは見つけたと思う、宝物は見つけたと思うけど、この場所という、こんな場所はやっぱりこんな場所は他になかなかないなと思うので、 そういう場所を見つけられたという気はするけれど、自分の力が拡張したというよりも、意識が広げてもらったみたいな感じ。この場によって。あ、こんなことをまだ考えられるんだなあっていう。それは自分が作品を作るとか、まだ音楽活動もしてるから、自分が考えたアイデアを形にするみたいなのって拡張することじゃないですか。だけど、というよりも、ここの場所を見つけたことで自分の意識が逆のベクトルっていう感じ。これはすごく楽しい経験なんで、ここに来るといろんなこと思いついたりするから、自分がバーっと力が開いていくんじゃなくて、開かれている感じがするんで、これはシェアしないともったいないなってふうに思ってるって感じ。


[江良]

なるほど、じゃあ本当に逆のベクトルですね。自分が拡張するなり、自分が場所によって拡張されるなり、人を楽しませたいみたいな、ある意味年に何回かならあれだけども結構これを何回も何回もいろんなゲストが来られてると思うから、結構面倒くさいっちゃ面倒くさいっていうか。なんていうのこう、多分こう人が楽しんでるのを見るのがいいとか、シェアしてそこで誰かの学びになってるのが楽しいとか、すごい面倒見がいいというか。面倒見がいいのか、ちょっとわからない、スナフキンにしては面倒見がいいというか。

[坂口]

新手のスナフキン。


[江良]

そういうところに喜びというか。


[坂口]

それはあるかもしれないですね。だから自分の音楽やって、何万人の前でやった時も、いやこういう音楽を聴いたら楽しいと思うよみたいな、DJやるときもそうだけど、という感覚と、今もそこはあんまり変わってないんですよ。だって今日やったことなんて、ちょっとした散歩でしかないじゃないですか。


[江良]

まあそうですね。


[坂口]

距離的には。


[江良]

ちょっとしたグレート散歩でした笑。


[坂口]

だけどこれ絶対楽しいよ、道端の雑草みたいなハーブがいっぱい生えてるところでね、それでちょっと嗅いでみるとか、潮の香りがするとか、波の音が聞こえるとか、砂に足をつけた感覚があるとか。これだけでちょっと歩くだけで十分楽しいよね、っていうのが。センスオブワンダーっていう本もあって、言葉もあるけど、そういうことなんで、これは機械的に増幅したPAでは味わえない。


[江良]

そうですね。


[坂口]

あの良さもあるけど、でもあればっかりじゃなくて。


[江良]

そうね、なんかこう集中された何か情報というよりも、やっぱり自然はやっぱりね圧倒的な情報量を持ちますよね。


[坂口]

それは楽しいから、なんかそれを共有してどうっていうのは、好きな音楽をプレゼンテーションして、みんなが踊ったり喜んだりしてるのと、そこの感覚は一緒なんですよね。


[江良]

そこはスナフキンとは変わらず。


[中馬]

まあでも自分だけのものにするみたいな感覚はない。

 

[坂口]

あんまない。結果あんまりない。だけど、とはいえやっぱ荒らされてしまうから、だからそうならないように最低限の囲いをしなきゃいけないなと思うけど、でもそのエンクロージャーというか、そういう風に囲い込んで、その囲い込むことによってビジネスしようとは思わない。


[江良]

うんうんそれは大切な玉ねぎの芯を何かこう、そこは譲れないところっていうことはやっぱりそこはまあ囲うというかこだわるというか、対策を。


[坂口]

だって自分で独り占めしてるのってなんかちょっと格好悪いというか、あんま気持ち良くないというか。せっかくこんなすごいの見つけたんで、まあ昔だから本当にすっごいかっこいい誰も知らないレアなレコーダー見つけたから、みんなで聴こうよっていうのがDJみたいなもんだった時とあんま変わってないっていうか、この風景、この音、この感触はもったいないからみんなで、分かってくれる人に、オーバーツーリズムみたいに誰でも呼んでこようとは思わないけど。


[江良]

そうですよね。まあでも、楽しいですよね、そういうのね。


[坂口]

楽しいですよ。面倒見がいいというよりも、これ楽しくないみたいな笑


[中馬]

グリッといく笑


[坂口]

太陽は1個しかないのに70何億人、80億人くらいいて、1個しかないじゃないですか。だけど夕日が水平線に沈んでいくのって何人が見たことがあるのっていう。それ見たらもう本当にこんなエンターテインメントないと思うんで。

 

[江良]

うんいやでも、本当にこの場所のスケール感は本当中馬君の写真がどれだけうまく撮れるかの勝負ですね、これを聞いてる人はね。


[中馬]

いやー笑


[坂口]

難しいよね。


[江良]

難しいよね。


[坂口]

いやこれが伝わらないんだよ。


[江良]

伝わらないですよね。いや僕もなんか今日何個か写真撮っても、いやこれ伝わらないなーみたいな。


[坂口]

そうだから本当にその二次情報で伝えるのにはものすごい技術もいるし、それがアーティストなんで、アーティストじゃないと言ってるっていう意味じゃなくて、だけどその場に足を運ばないとわからないものの価値っていうのがもっとあるんで、身体的な価値っていうか。


[中馬]

そうですね。それはありますよね。


[坂口]

それを感じられるのでここは。だから本当にわかってくれそうな人には本当に感じてほしいなーという、ことなんです。


[江良]

なんか中馬君から坂口さんに聞いてみたい、改めて。僕はね、中馬君と坂口さんはさっき話し聞くと15年ぐらいの。


[坂口]

もうそれくらいになりますかね。


[中馬]

そうですね、ちょっとやっぱり少し話戻るんですけど、GOOD NEIGHBORS JAMBOREEの1回目を坂口さんが始めて、その時に、僕は2回目か3回目ぐらいから毎年参加させてもらってたんですけど、本当にこうなんていうんですかね、地元の人たち、鹿児島の場の人たちで場を作り上げてるっていう感じっていうのはあって、しかもみんな割とこう手弁当でこうやっている、結構大変じゃないですか、すごく大変な作業をみんなで分担してやっていて、で最初からそういう景色を想像してたのか、それとも結果としてそうなったのかとかっていうのは、ちょっとすごいどっちなんだろうなっていうのは思います、改めて。


[坂口]

えーとね、うーんなんていうんだろう、実際は結果としてそうなったんですよ。なんだけどそういう風になったらいいなとは思っていた。結局ジャンボリーって収支、経済的な収支的にはトントンを目指したんですよね。赤字になったら、大きな赤字になったら続かないけど、大きな黒字になっても面白くないと思うんですよね。大きな黒字になると、じゃあボランティアでボランタリーにみんな参加してるのにすごく黒字が出てますと、それどうするんですかって話になったら、じゃあそれ分配すんのかなってなるじゃない。分配し始めるとそれは会社になってしまうので、株式会社みたいなことになってしまうので、誰にどう分配するみたいなことが出てくるでしょ。そうすると主催者が決めるってことになる、そうすると分配してる人が権力を持ってしまう。で別にそういう風に偉くなりたくなかったんですよ。そうすると何かこうバーティカルな垂直な関係になって上下関係みたいなことになってしまう。


[江良]

ヒエラルキーが生まれる。


[坂口]

何かあんまりそれはここではしたくなかった。それは別なところでやればよくて、株式会社みたいに会社作って、仕事をして、じゃあ社員に分配するみたいなことなのは、じゃあ給料テーブルで作って、とか何か面倒臭いことを考える、やるじゃないですか。それはそっちでやればいいけど、ジャンボリーはそういうことをしたくなかったから、水平の関係でいたかったというのがあって、できる人ができるものを持ち寄って、できない人はそれをサポートするなり、そこに教えてもらうようにしながら、でも例えば料理はできないけど音楽はできますとか、音楽はできないけど絵は描けますとか、絵は描けないけど力はありますとか、そういう人が自分の持っているものを持ち寄って作れる世界を作りたいというのを思っていたから、だからそうなるといいなと思っていた。だけどなるかどうかは分からなかったけど、結果として、束の間そういう風景が生まれたかなと思うんで、それがいいねって言ってみんな来てくれたと思う、都市から。都会ではそういうことはなかなかないんで。お金払わないと、人のスキルを買うしかないから。それがジャンボリーをやっていて最大都市部の人を引きつけたら要因じゃないかな、と思います。


[中馬]

そうだと思います。その一人なんで笑。やっぱり毎年毎年行くんですけど、毎年おかえりって言ってもらえる景色っていうのは他のイベントにはなかったよなと思うし、でも多分それって狙ってやれるものでもないっていうか、一人一人のマインドがそうなっていかないと、ボランティアとか参加する人でもその質がずっと落ちないっていうか、ずっとみんな同じマインドでやって毎年やっているなっていう感じとか、それは本当に純粋に


[江良]

純粋に楽しいから、少なくとも絶対当然お金じゃないし。それをやっぱりちゃんとオーガナイズしていくのは、やっぱり表現だったんでしょうね、多分ね、坂口さんの立場からするとね。別に皆さんは表現じゃないと思うけど坂口さんからすると表現だからそこはやっぱり明確なそこへのこだわりが絶対あるわけですよね、多分ね。


[坂口]

そう、だからよく言っていた、今でもうちのメンバーにも言うけど、DoじゃなくてBeっていう。「Be A Good Neighboor」っていう名前にしてるんで、会社を。Doっていうのはタスクなんで、何をするか、どうするか、それ対してリターンはどうあるか、みたいな世界になっていくんで、経済の世界にどんどんなっていくけど、あり方っていうのは経済じゃないんで、その姿勢というか、こういう風に生きていきたいなとか、大きい事で言うと。こんな風にありたいなっていう、そこを大事にしようよっていう感じはあって、どんなあり方がいいのって言ったら、自分は心地よいけど、周りの人はつらい思いをしているけど、自分だけ上で踏んぞり返っているっていうあり方が、心地よいっていう人はそういう世界に行けばよくて、でも僕らのところにはいなくていいよね、僕らのところはそうじゃないよね、みたいな。それって言葉になかなか言語化しづらいけど、だけどそれはもう、そういう人の集まりとして、体験として共有するしかないんで。それを一次情報として、五感で感じているっていう。野外でいれば、雨も降るし、暑かったり寒かったりするけれど、でも、だけど、すごくあの人は活躍してて偉いなと思っている人が、裏でゴミを拾っていたりとかするのを見ることで、こういうことなんだっていう風に、言葉じゃなく体感していくことというか。そのためにはフェスティバルっていうのはすごくいいメディアだったんです。それが後輩も含め、先輩も含め、同じような体感をした人が、15年で、述べで言うと数万人に上ったっていうのは、それなりにこの地域に対して、地域というか、地域を超えたコミュニティに対して、一定の何かメッセージは伝えられたんじゃないかなと思うし。そんなふうに思ってますよ。


[中馬]

でもなんかさっきも、市内を案内してもらっているときに、元々ボランティアで参加していた方がコーヒー屋さんを。


[坂口]

そうそうそう。


[中馬]

でも結局それって、ボランティアとして参加しているときに、何かそういう意識っていうか、何かを感じるわけじゃないですか、きっとみたいな。でも一方で、普段の仕事も多分あって、だんだん、だんだんこう、少しずつその意識が変わっていく中で、生き方の、また新しい生き方っていうか、違う生き方っていうか、見つけていって、少しずつなんかその、それこそタマネギの皮をこう、剥くように。


[坂口]

自分のね。


[中馬]

なんかそういう、なんかそれって多分、まあそういうことだよなっていう。で、割とこう、毎年参加しているとそういう人ばかり。


[坂口]

結構いっぱいですね。独立してたとか、何か始めたとか。


[中馬]

それがすごいやっぱり面白いなと、毎年思ってましたね、僕は。


[坂口]

だからまあ、これでやれるんだっていう感じと、サポートする仲間ができたっていう。そういう意味で言うと、さっき地域では経済が成り立たないって言ったけど、成り立ってる人もいるわけですよね。小さいマーケットで、大きいことしなければ、小さいマーケットの中で、


[江良]

ローカルエコノミー的な感じで。


[坂口]

そう、ローカルエコノミーの中で、やれる、自分の居場所を見つけた人はたくさんいると思う。


[江良]

そうですよね。


[坂口]

さっき言ったこと、ちょっと矛盾するけれど、見つけられた人もいる。みんながとは言わないけど。


[中馬]

でも、なんかそういう魅力を感じてたから、僕もたぶん毎年行ってただろうし、たぶん僕みたいに毎年行ってた人って、東京からもそうですけど、やっぱそういう、こう魅力が、とか、なんか可能性がやっぱりあのイベントのどこからも感じられていたっていうのは、なんかすごいいいなって思いますね。


[坂口]

そう言ってもらえるのが一番嬉しいし、だから逆に言うと、15年やって、もうやめて大丈夫って思ったってことですね。そういうのが地域にずいぶんたくさんいるから。彼らがやってくれるから、もうイベントという形で、フェスティバルという形でやらなくてももう大丈夫、それくらいの安心感があったからやめられたっていうのもあるだろうし。


[中馬]

うん。でも、今日もあのヘイザン、何でしたっけ、ヘイザンケじゃないでしたっけ。


[坂口]

名山堀。


[中馬]

名山堀。全然違う名前笑。なんかあそこも割とこう、なんかそういう、なんていうんですか。


[坂口]

え、もういっぱいある。


[中馬]

すごいじゃないですか、あそことか。あー、なんかこれがここに繋がるのかとか。なんかそういう感じ、感覚っていうのはやっぱあって、なんかそれを確かめられたことも今回すごく面白かったし、やっぱもっとちゃんと次、夜行きたいなとか、夜どんな感じなんだろうとか。そうでもやっぱりあれがあってここに繋がっていくみたいな、ことはやっぱりなんか、すごい感じますね。


[坂口]

あの、ご飯が売り切れちゃってたあいつとか。


[中馬]

はい。あの、鶏飯屋さんとかですよね。


[坂口]

そう。売上のことを考えたら、もっと用意しとけよってなるじゃないですか笑。


[中馬]

そうですよね。


[坂口]

だけど、彼一人でやってるから、自分の好きなものを並べて、食堂なんだけどレコードとか本とかいっぱい置いてあって、あのカルチャーに好きなやつがいくんですよね。で、そうすると、もうその、必要以上に稼がなくていいって感じがあるんですよ。


[江良]

決して儲かる感じはしないけど、でもやっぱ好きなことをちゃんと、


[坂口]

そう表現して。


[江良]

やれるし、まあやっぱそれだけの場所が鹿児島ならできる。まあさっきも、あのお店で言いましたけど、あれ絶対東京じゃ無理ですよね。


[坂口]

固定費がかかりすぎる。


[江良]

まあ多分、高円寺とかあっちの方でも無理、もはや無理というか。昔はあんなのいっぱいあったのに、もう無理ですからね。


[坂口]

だから固定費のために働くっていうのは、実はもうシステムに働かされるようなことになっていくから、固定費が、つってもゼロじゃないんで、低いってことは、システムを乗りこなす可能性も生まれるっていう感じだと思うんで。彼なんかはそんな感じで。だって行ったの12時半ぐらいだったのに笑。もう売り切れー?みたいな笑。もう無いのかよ、みたいな。


[中馬]

ちょっと予想以上に入ってきたっていってましたからね。

 

[江良]

すごいちょっとあの、エクスキューズが可愛かったです。そう。すいません、ちょっとご飯がうんたらかったって。分かんなかったんで。うんたら。


[坂口]

こんなに人来ると思わなかったんで、みたいな。朝から人来ると思わないとかね。あれね、朝食からやってるんですよ。あいつDJもやったりするから。朝からやって、昼過ぎでもうお店終わって。



[江良]

寝て。


[坂口]

そう。で、夕方から夜は遊んでるっていうか、自分の好きなことやってる。DJをやったりしてる。


[江良]

なるほど。じゃあ、もうワーキングタイムが昼まで。


[坂口]

そう。だから朝から旅行者が多分多くて、朝食で来る人が多かったでしょうね。


[江良]

でもすごいな。あの本とレコードの形態で朝方営業っていうのもなかなかインパクトありますね。


[坂口]

それはだって彼のライフスタイルとして、夜は自分の好きなことしたいから。

 

[中馬]

でもいいですよね。そういういろんなスタンスの場所が、あの中にギュッとあって。すごい濃い場所だなって。


[坂口]

今日は売り切れというのを体験しただけれども、これ一次情報でしょ。


[中馬]

そうですね。


[坂口]

だからこのネットでこの話をテキストで読んだって、わかんない。


[江良]

わかんない笑。確かに。


[坂口]

あいつの佇まいとか、ちょっと開き直るのより、あ、すいませんみたいな、表情とか。そういうもの全てがすごい豊かな情報だから。


[江良]

そうね。本当おっしゃる通りです。

 

[坂口]

いやでも面白かったね。


[中馬]

面白かったです。

[江良]

いやでも本当に話は尽きないんですけども。一応このポッドキャストの、今日も大分いろいろ話を聞いた中であるんですけど、この聞いていただいている方が、より彼らなりのオルタナティブな何かに向かっていくために、なんかこうちょっとしたアドバイスというか、ちょっとした何かこういうことできると、やってみるといいかもみたいな。なんかいろいろ話は出てたんですよね。


[中馬]

そうですよね。今日いろんなね。


[江良]

ちょっとタマネギの皮みたいなのね。誰でもできることかもしれない。


[坂口]

そう。だからその、今いる、今の場所でやればいいんだけど、なかなかね、自分のその生活圏の中で、それは難しいんですよね。やっぱり、僕の場合はそうだったけど、やっぱり移動することだと。


[江良]

うんうん。


[坂口]

違う、全く違う人、全く違う匂い、全く違う空気というか環境に身を置くと、勝手に自分の皮が剥がれていく感じがするっていうか。なんで俺ってこうなんだみたいなことを、まあ俺ってっていうとちょっと男性上位みたいな聞こえるから、なんで私ってこうなんだっていう。


[江良]

でも、なんかその前は俺ってこうなんだって。そういう問いが自然に生まれてくる。


[坂口]

自然に生まれてくる。僕はそれは旅をすることだと思う。


[江良]

もうスナフキンとして。


[坂口]

世間史としての。世間史っていう言葉を英語で言うとworldlyっていう言葉になるらしい。で、世界的なというか。まあそれ、翻訳してworldlyなんで、それを翻訳しっかりする意味はないんだけど。でも、やっぱり本当に異なる環境に。旅っていうのは別に物理的に距離だけじゃなくて、今まで行かなかったところに行ってみるとか、毎日歩いてる道でもちょっと寄り道すると全く違って見えてるじゃないですか。で、なんかそういう環境にあえて一歩踏み出すっていうか、旅ってそういうことだと思うので、物理的に距離のことじゃないと思うから。だけどみんな意外とそれはしないんですよね。できるだけ同じ電車の、毎日降りるところの一番階段に近いところに乗ろうとするみたいな。そういうところから一番端っこの車両に乗ってみるとか。


[江良]

なんかそうね、確かにそのシステム。まあ自分自身もシステムとなんかね。


[坂口]

そう、自分自身でシステムを作ってきちゃうから。一駅前に降りてみるとか。普段やらなかったことを、いくらでもあるはずなんで。


[江良]

そうね。でもそこに出会いが多分何かあるはずですよね。


[坂口]

そうそうそう。そうすると、なんか勝手に自分の皮がポロポロ落ちてくるような経験があって、その中で何かが見えてくることもあるんで、その見えてきたものをちゃんと捕まえるというか。それを流さないというか。違和感を。


[江良]

目をそらさない。それだいぶ、やっぱりちょっと意識してみないとね、難しいのかもしれないですね。


[坂口]

うん。でもそれってすごい楽しいことなんで。そうやって頑張ろうって、頑張って一駅前で降りるとかそういうことじゃなくて、やってみたら面白いかもって、面白がれるかどうかだと思うんで、うん。まあもっと面白がって、寄り道するってことだと思います。


[江良]

すごい良かった、今日は笑。


[中馬]

良かったですね。


[江良]

勉強になった、俺が。


[中馬]

はい。良かったです。


[江良]

じゃあ、本当今日はありがとうございました。


[坂口]

はい。ありがとうございました。


[江良]

はい。じゃあ今日は、株式会社BAGNの坂口修一郎さんにお話を伺いました。

ありがとうございました。

記事の掲載場所: 2025年9月5日